イタリアの現代美術
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概要
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五〇年この方、芸術分野で本当の意味の復興がイタリアで生み出された。事実一九一〇年に未来派が突如として現われるまでには、イタリアの美術界は寧ろ停滞し、言わば地方色の特徴を持っていた。印象主義はさして育たなかった。当時、何人かのイタリア人がパリーに赴いたとしても、第一級に位する程成功を収めなかったであろう。例えば、エドモン・ドウ・ゴンクールが≪アブルッツィの小さな牧人≫と名付けたジユゼッペ・デ・ニィッティスGiuseppe de Nittisの場合がそうである。マネーの友人である彼は、一八七四年に最初の印象派展覧会に参加した。次回からは彼は参加していない。彼の絵画は人の求めるものであり、ある種の魅力、多少時代遅れの魅力に缺けていない。ドガから後援され、しばしば彼を敬服させた今一人のイタリア人、フェデリゴ・ザンドメネーギFederigo Zandomeneghiは一八七九、一八八〇、一八八一、一八八六年の印象派展覧会に出品したが、何時も目立たない存在であった。平衡を無視した構図によって、彼の芸術はドガに親近性を持っている。しかし、この時、メナルド・ロッソMenardo Rossoという注目すべき彫刻家が現れた。彼は明かにロダンに近く、光りに与え得た役割により、印象主義の課題を彫刻の中に表出した。未来派の人々は彼を師として敬意を表した。一方、図案家であり、また、諷刺画家であったレオネット・カピエルロLeonetto Cappielloは最も独創的なポスター画家でもあった。彼は一九四二年にカンヌで突然死去したが、最近その二〇周年記念が行われたばかりである。イタリアの美術復興が始ったのはジョルジユ・スーラの分割派の影響下であった。才能ある多くの画家達が≪グラン・ジャットの或る夏の日曜日≫の作者の筆触を用いた。即ち、バルビゾン派の画家にも成り得る程に自然に打込んだジョバンニ・セガンティーニGiovanni Segantini、一八九一年にミラノで展示された≪母性≫が広く関心を喚び起したガエターノ・プレビアーティGaetano Previati、就中、イタリア半島の分割派の中で最も資質の高かったジユゼッペ・ペリッツァ・ダ・ヴォルペードGiuseppe Pelizza da Volpedoがそれらの画家であった。(註)本訳稿は、La Revue de Paris, 一九六二年四月号に載せられている≪L'art moderne en Italie, Par Henri Perruchot≫の邦訳である。
- 1964-01-20
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