「国語学」と「日本語学」 : 学会再生のために
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概要
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国語学会は国語研究の進展と会員相互の連絡を図ることを目的とし,広く全国の国語学研究者および国語に関心を持つ人々を会員として運営されている学会です。これは,左開きの現在は目次の裏に掲げられている「国語学会について」の冒頭である(傍点は引用者による)。本誌第153集の「学界展望」の拙文で,この文言の非現実性について発言することがあった。それに対して,すぐに徳川宗賢氏からはがきが寄せられた。紛失してしまったそれには,本学会のある会合で,この文言と学会名が時代遅れであることを言って冷笑された旨が書かれていた。1997年秋の大会で「学会運営についてのアンケート」が実施された。徳川代表理事による報告が第192集に掲載されている。それによると,学会名称の変更を望む意見は少数派だったが,変更を望む人は「日本語学会」を選ぶ傾向があったという。代表理事というたちばから,徳川氏はご自身の見解を示していないが,今ご存命だったら,さらに改革を進めていたかもしれないと思う。その展望には,己れのことを,「これはおちこぼれの隠れKameianたる(いな,もはやたりしとすべきか)わたし」とも書いた。北陸の大学に学んで国語国文学を専攻し,格助詞の歴史に関する論文を書いて卒業したわたしは,いわゆる旧派「国語学」の学生であった。言語学関係で履修した科目は,4科目10単位に過ぎない。二十代の終りに大学院に学び,亀井孝氏の著述に触れて,己れの勉強の挟く偏っていることを知ったが,悲しいことに,貧弱な頭脳は早くも硬化して,言語学を吸収することができなかった。せめて氏の精神だけでも学ぼうという思いがその文言になったのである。学問の姿勢が亀井氏に近いたちばにある小松英雄氏は,新著『日本語の歴史』に書く,「このような妄論が現今の概説書に出てくるのは,国語学が国文学と密着して近世国学の伝統を継承し,鎖国状態を続けたまま,言語学の進歩についてこなかったことの悲惨な結末である」(23頁)と。「悲惨な結末」はわたしの姿そのものである。小松氏はまた,「近年は,旧来の国語史の内容をそのままにして,名称だけを日本語史と改める風潮が顕著に認められる」(19頁)とも言う。もとより覚悟のうえで,新酒のために新しい革袋を用意するつもりでこの名称を用いてきたわたしは,この批判を甘受するものである。崩れた姿勢が正装することで直ることもある。以上,個人史的な回想である。客観的な状況は,先の徳川氏稿,第193集の山口佳紀氏稿,第200集の特集に寄せられた諸氏の稿,そして,205号来の本欄の稿などで具体的になった。現在の学会の態勢が学問にも教育にも時代遅れであることは明らかである。外国人との接触多からずとも,「国語学」の名称がいかに不自然であるかは理解しうるはず。同じ日本語が対象なのに,外国人の研究は「日本語学」,日本人のそれは「国語学」だという奇妙なことを,もうやめようではないか。漢字文化圏では,韓国も自らの言語の学を「国語学」と称するが,他国のことは言わず自分の身辺を清潔にしたい。「日本語」という名称に大日本帝国の匂いを嗅ぎとる人もある。わたし自身,「君が代」が歌えない人間なので気持ちはわかるが,反対に「国語」の方に帝国の匂いを感ずる。人さまざまである。それなら,中国・韓国で用いる「日語」「日語学」でもいい。世界を席捲する「英語」が英国にとらわれないように,いっそ好ましいかもしれない。そもそも,この学会の英訳名には「国語」の含意がない。名詮自性,これが自分のかかわる研究領域での願いである。かく思うゆえに,特に術語は正確・厳密に用いるべきことを,いくつかの文章に書いてきた。言語の研究にたずさわる者として当然のことであろう。「日本語」を研究対象とする学会なら,「日本語学会」が最適である。「日語」を採れば,当然「日語学」「日語学会」。文部行政の申し子たる旧派国語学会から,時代錯誤の言語教育行政に変更を迫る力を備えた学会に再生せねばならない。明春の大会には学会名の変更を決定すべきである。本学会の幹部には,学会の分裂を招きはしないかと,学会名の変更をためらう節があるようだが,ためらう時間が長ければ長いほど,国語学と日本語学の乖離は大きくなるだろう。現に昨冬,日本語文法学会が発足したのは,そのためらいに業を煮やしたからではなかろうか。日本語史に無智なままになされる現代語研究は危ういし,現代語の構造を見透さない日本語史研究は寂しい。双方にまたがる,あるいは諸領域にわたるさまざまな研究がある。それらの要になることこそ,本学会の存在意義であろう。わたしは至らぬまでも,蛸壷から首だけでも出して四方に目配りしつつ余生を過ごしたい。学会誌の名称は,現在用いられていないものに探すなら,『日本語学会雑誌』あるいは『日語学会雑誌』がいい。これなら決して古くなることがないだろうから。
- 2002-04-01
著者
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