輝くもの必ずしも金ならず
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概要
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すべてのアメリカ文学はマーク・トウェインの小説,『ハックルベリー・フィンの冒険』に由来する,とアーネスト・ヘミングウェイはかつて述べた。ヘミングウェイが意味したことと彼の見解の正確さは,その後多くの文学批評の中心にずっと位置している。しかしながら,次の三点がヘミングウェイの見識から明白である。ひとつは,トウェインの語り手であり主人公でもある14歳ぐらいのハックが,小説における日常的な言語の使用を容認できるものにするよう手を貸してくれたことである。二つ目は,ありふれた登場人物の描写に焦点を当てる小説を大衆化してくれたことである。三つ目は,「人間が一人前になること」を描く物語に対する関心を文学のひとつのジャンルとして育ててくれたことである。 サリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』が,トウェインの創造的遺産を今日に伝えるものであることは十分に論証できる。サリンジャーの語り手,ホールデン・コールフイールドは,ロッカールームや路地裏通りの言葉を口にする。彼は現代アメリカ小説の多くに見られる,怒りと幻滅のアンチ・ヒーローの代表であり,17歳にして大人になることの意味を学ほうとしている。ここに収録した二つの短編の主人公である,14歳のクラーク・クラークと13歳のジユニアー・ウイーラーは,ハックやホールデンと同様に,少年期の人生観を問い正す少年である。二人は外部の力により圧迫を受け,若者特有の人生の幻想が与えてくれる慰めを得ることができないまま,大人としての理解が要求される入り口にさしかかっている。彼らはまた,毎日,どこにでもいそうな人物であり,夢を問い正すとき,街路の乱暴でがさつな言葉を使って生活し,自らの性に目覚める。クラークとジユニアーは共に,彼らに対抗する未知なる運命の力と衝突するものを願っている。その結果,二人は夢を失うが,青年期の不幸と格闘することにより大いに成長する。