「他者の死と私/私の死と他者」 : 張載・朱熹・王夫之からの問い
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概要
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王夫之は、張載の気の聚散・不滅説をあるべき死生理解として顕彰し、張載に反対した朱熹の、気は死後消滅するという説を排撃した。しかし、王夫之の死生理解は張載そのままではない。それは死をめぐる独自の問題系から出発して、別の問題系をめぐっていた過去の言説を再構築したものというべきである。本稿では、張載、朱熹、王夫之それぞれの独自の問題を辿りなおし、かつ反照させながら、死の問題を新たに再構築することをめざしている。 それぞれの問題とは何か。張載においては、私の死への恐怖をいかに超克するか、朱熹においては、すでに死んだ他者を祭るための根拠は何か、王夫之においては、私が生前、倫理的実践に努めるべき根拠は何か、であった。これらの問題は、それぞれの世界解釈を要求し、あるいは逆に、世界解釈の側から解決を求められる。張載は、私を構成していた気は死後も滅びずに世界を循環するとし、そのことを悟って全体世界に一体化することで個体の死の恐怖を超えようとした。しかしそれは個体意識の否定という困難をともない、それにともなって他者の抹消もまた不可避であった。朱熹は、張載の気の循環をきらい、一度生成に参与した気は消滅するという前提のもとに、理気二元論による世界解釈を構築したが、そのさい、死者を祭ることの意味と根拠が鋭く問われざるをえなかった。その根拠を理に求めたある種のタイプの議論は、祭るべき他者の範囲を大きく広げる可能性をもつ。王夫之の場合は、死後の気の消滅が生前の倫理性を無意味化することを危惧し、私の死後の気が他者にまで影響を及ぼしていくとすることで倫理の可能性の条件を擁護しようとした。そのさい、私の生は将来の不定の他者への責任によって貫かれることになる。死はつねに他者との関係においてあることを、王夫之は洞察したのである。 朱熹と王夫之の言説が示唆する可能性を結び合わせるならば、遍在する不定の死者への応答と、将来の不定の他者への配慮が、死により条件づけられた倫理的問題として浮上する。こうした問題は、いくつかの具体的な問いとして立てられ得る。しかし、死の問題は当然、別の角度からさらに再構築されなければならないだろう。
著者
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