チックや行動異常をともなうM君の母親への面接をふりかえって
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概要
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このケースでは,二者関係(絶対依存)への成立の時期に端を発した問題が取りあげられた。幸いにも子供の方に,多少変わり者的ではあったものの中間領域が成立していて遊ぶことのできる余地があったので,母親の方の態度や生き方に変化をみたことで,子供の方もかなりの改善をみたものである。母親はもともと自己愛的で,子供すらも自己愛的を満足させるための道具として自分の一部のように取り扱かっていたといえる。しかし,母親の方からみれば,やっかい者の家族をかかえ苦労しているという犠牲的な立場をしいられていると感じられていたものである。母親は子供を別の個人として見ることすら,筆者からの持続的な働きかけや支持がなければできない人であった。授業参観や日常生活の報告など,これまで散々目にしてきた現象であったにも関わらず,母親にとっての事実は全くちがっていたわけである。同じ現象を取り扱いながら,意味は全くちがっているということこそ,人間を本当に動かしているものの存在を語るものはないであろう。人間の心の中の対象関係によって生じるFantasyやi11usionの働きが,実は人間を動かしていると思うのである。これらの働きによって,目にする事実も変わって見えてくるし,意味が生じたり,豊かになったりするのではと思われる。ふりかえって見ると,面接の約束が守られずにふり回され,理解を得るにもこちらが混乱してしまっていた。子供担当者とも母親の面接をめぐって葛藤があったし,子供が来室しないことへのイラ立ちもあったし,当の母親とも関係は二転三転していた。これらの状況をのり込えるべく,大変な努力が必要とされ,それがある種の迫力となって母親をおびやかしたものと,今では恥ずかしさを併いながらも思い起こされる。筆者自身も方向性を見いだすためにあがいていたのであろう。一方,一生懸命という力も働いていたため,母親をおびやかす一方で,ひきつけもしたのかも知れない,とも思う。病理面でみれば,約束が守れないこと,ナルシスティックな世界にとどまりがちなことから母親の人格構造は境界例構造に近い状態であったろうといえるが,自我の力に助けられ,かなり境界例状態を脱したものといえる。しかし,今後共,もともとの素質として影響を与え続けるにちがいない。子供の方はチック症という神経症レベルにはなく,境界例構造にある状態である。しかし,1年半程の経過を経て,比較的軽度の状態へと発達的に変化したものと思われる。今後も能力が開かれ,自我がきたえられていくものなら,さらに人格の発達は望まれるが,幼少時からの学習困難による学力の遅れや,劣等感,異和感など様々なものがその過程において影を落とすと思われる。しかし以前よりは人間界の仲間として生きやすくなったのは何よりの事実である(虫,動物への執着はうすれている)。