「いじめ問題」にみる教育と責任の構図
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概要
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本稿では「いじめ問題」にみる教育と責任の構図を素描する。<BR> デュルケームおよびフーコーに従うならば,「責任主体」は規律訓練装置としての近代学校教育によって形成される。すなわち,前近代的な「共同体」においては「責任主体」は存在しえない。「いじめ問題」においては,学校の中で前近代的な生徒共同体が再現されたという説明が受容され,一般社会的なイメージとして広がった。構築主義的な捉え方をするならば,「校内暴力問題」(「いじめ」以前の主たる問題)を語る社会システムが「いじめ問題」を語る社会システムへと変化し,それによって「責任主体」という形象が消え,代わりに「共同体」という形象が登場した。<BR> そこから,「いじめ問題」を二通りのやりかたで描き出すことができる。第一に,それは「閉域としての学校」の終着点として描き出される。もはや近代的な規律訓練装置として機能しなくなった,単なる閉域としての「学校」が,再び共同体をその中に抱え込んだ,とみなされる。第二に,「学校」の限界を,ドゥルーズの言う「管理社会」の現象と見ることもできる。「管理社会」は,近代的なさまざまな「閉域」を解体し,シームレスな管理のシステムを作り上げる。近代的な「応答責任」に代わって「説明責任」が強調され,「個人 individual」は「可分性 dividual」へと解体されて情報ネットワーク上に新しいある種の「共同体」を形成する。こうしたシステムの変化を「いじめ問題」を通じて見出すことが,社会学の重要な役割である。
著者
関連論文
- 苅谷剛彦, 濱名陽子, 木村涼子, 酒井朗[著], 『教育の社会学-の問い方, 見直し方-』, 四六判, 280頁, 本体1,900円, 有斐閣, 2000年4月刊
- 渋谷真樹[著], 『「帰国子女」の位置取りの政治-帰国子女教育学級の差異のエスノグラフィー-』, A5 判, 370 頁, 本体 8, 400 円, 勁草書房, 2001 年 2 月刊
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