エトロフ問題の歴史的起源 : 一九世紀初頭の漁業経営
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概要
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エトロフは、日本政府がロシアに対して統治を主張するいわゆる北方領土(エトロフ・クナシリ・シコタン・ハボマイ)の最北の島である。この主張の根拠は一八五五年に調印された条約である。その条約では、日本とロシアの国境はエトロフ島とウルップ島の間に決した。一八〇〇年から日本がエトロフ島の開発を行い、日本人だけがそこで漁業と交易を行っていたことが、そこに国境が引かれたゆえんであった。本稿の目的は一九世紀初頭のエトロフ場所(漁業と交易の経営範囲)の経営の分析にある。 徳川幕府(一六〇三年から一八六七年の日本政府)は蝦夷地(北海道)東部を一七九九年に直轄とした。蝦夷地の先住民であるアイヌとの全ての交易品の価格は、場所ごとに固定された。この政策の目的は、経済的なものではなく、日本人に対するアイヌの信頼を獲得することであった。エトロフ場所での価格は、一七五四年から産物を日本市場に供給していたクナシリ場所での価格を基準としていた。そこに幕府は市場価格を考慮し、費用を考慮しても利益があるように(アイヌに支払われる)価格を固定したが、時とともに、日本市場での価格との折合いがつかなくなっていった。 エトロフ場所が開設されてからの数年間は、場所の収支は幕府の官吏が考えていたよりも利益のあがるものであった。エトロフ場所は日本市場からもっとも遠い場所であった。高額な運賃にもかかわらず、エトロフ場所は利益があがった。エトロフ場所の経営を黒字とするのに、産物の販売価格は十分高く、交易品の買い入れ価格・アイヌの賃金・生産のための仕入物の価格は十分低かった。 しかし、エトロフ場所の繁栄は長くは続かなかった。先行研究は、経営悪化の理由を漁獲量の減少としている。しかし、経営悪化の原因は、産物の販売価格や費用の変化でもあった。販売価格に変化がなければ、漁獲量が変化していてもエトロフ場所は利益を出し続けたであろう。費用が変化しなければ、エトロフ場所の赤字は僅かなものとなったであろう。エトロフ場所の収支が悪化した理由は、漁獲量の減少といった自然の問題だけではなく、販売価格や仕入物価格の変化といった社会経済の問題でもあった。 販売価格や費用の動向を通じて、エトロフ場所の経営は日本市場によって影響されていたのである。これらの動向は場所経営にとって不利に働いた。しかし場所請負人(場所での漁業と交易を請け負った商人)はその不利な変化をアイヌに対する固定価格に転嫁することができなかった。エトロフ場所の経営を悪化させたのは日本市場の動向であった。
- 国際日本文化研究センターの論文
- 2000-10-31
国際日本文化研究センター | 論文
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