松本治一郎の公職追放
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概要
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部落解放運動、いわゆる水平社運動の最高指導者として知られる松本治一郎は、一九四九(昭和二四)年二月二四日、公職追放となった。松本が戦前「大和報国運動本部」の理事であったことが、同本部の上部団体である「大日本興亜同盟」の解散団体指定により、自動的に昭和二二年勅令第一号の公職追放覚書に該当するとの理由であった。しかしこの大日本興亜同盟に加盟したのは、大和報国運動本部の後身である「大和報告会」であり、松本はこの報告会とは無縁であった。明らかに政府当局の誤認、というよりも、参議院副議長として天皇拝謁を拒否した「カニの横ばい」発言や皇室財産の削減要求、あるいは天皇の戦争責任論など反権力・反体制の言動著しい松本を、懲罰的にパージへと追い込もうと焦慮する余り、勇み足となったのである。松本側は直ちに公職資格訴願委員会へ提訴したが、結局彼のパージの立場は変更されず、一九五一(同二六)年八月の追放解除に至るまで、格子無き牢獄に押し込められたのである。 本稿では、アメリカ側の資料を基軸とし、松本パージを日米両国のより広い視点から位置づけ、その実態を究明すると同時にその歴史的意義を論考する。
- 国際日本文化研究センターの論文
- 2000-03-30
国際日本文化研究センター | 論文
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