経営の自由を縛る「説明責任」の恐ろしさ -説明責任から結果責任への転換-
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概要
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社会生活が多様化し、社会制度が複雑化すると、一つの原理原則によって、調整をすることが困難になる。その調整弁として、社会システム全体の改革を一旦棚に上げて、あるいは制度の根本的改正を行うことなしに、多数の者が複雑に関わる実践の場において、当面の問題を回避しようとする方法としての「説明責任」には、それなりの合理性があるといえる。ただ、森に生息する鳥のごとく、説明責任の大合唱と共鳴には、戸惑いと危うさを覚えるのである。 説明責任を殊更に強調し、今の戸惑いと危うさという感覚に納得のいかない者は、今日、人と社会が直面している事実に、あまりにも重大さと深刻さを認識しておらず、無頓着であるといわざるを得ない。もちろん、一般人からすると、一見、説明責任は、聞こえが良く、それなりに合理的な考え方であると思われるであろう。これについて、違った考え方をすべきだと考える。 そこで、本論文では、目に見えず、どこまでしていいのかわからない説明責任という怪物に光を当てて、くわえて瞬間的に凍らせて、レントゲンを放射するかのごとくに解剖し、丸裸にすることを目的とする。そのうえで、説明責任を唱える前に、やるべきこととしての企業情報開示制度の構築と確立を目指すべきであると声を大にして伝えたい。 最終的に本論文では、説明責任から結果責任へと転換を果たして、会社制度のなかで責任の所在を明確に限定するところから始めなければならないと主張する。まずしなければならないことは、各会社内で説明責任の明確な自主規定と、それに則った経営行動である。そうしなければ、いずれ強行法規によって、説明責任を定められ、今よりも、がんじがらめで窮屈な制度が生まれることになってしまうのである。
- 2010-10-31
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