いわゆる光明立后の詔について
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概要
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戦後も五年を経て一九五〇年代になると、苛烈な戦中に多くの俊秀を失ないはしたが、戦前戦中における研究の制約から解放されて、生還した研究者や新たに大学を終えた新進学徒による研究成果の発表が続出した。各学会の大会も盛況を呈して活発な論議が行われ、遅刊を繰返した研究誌も定期刊行を回復し、復刊や創刊される研究誌もあり、大学の紀要も発刊されて、論文発表の場も広がってきた。この頃、学界の注目を受けた優れた研究者の一人が、故岸俊男氏であった。その頃の岸氏の研究成果はおおむね『日本古代政治史研究』に収められている。本書は岸氏の厚意によって頂戴し多くの教示を得たが、其の後も定説の地位を保っている論考が多い。昨年、病間の徒然に久しぶりに本書を繕いて往時の追憶に浸っていたが、そのうちの「光明立后の史的意義」は岸氏の発表来半世紀を経過した私の知見を加えると、戦前以来の通説に依拠しておられることや、『続日本紀』本文の子細な検討に欠けるところが散見するので、これらの部分に修正を加えてゆくと、岸氏の見解と異なる結論になるところがあると思われた。それ以来、老毫の身で書き継いだのが本稿である。一九八一年に岸氏が逝去されてからでも二十八年になる。もっと早くに気がついてとの思いに駆られながらのことである。なお、本稿は「天武天皇崩後の皇位継承について」と題して書き始めたが、史料を引用して検討を加えるとかなり長文になるので、視点を「いわゆる光明立后の詔」に限定し、安閑天皇以降の皇位継承については、概略を補論として示す事とした。年代の記載も不備で、史料の引用や論証を省いたから粗雑で奇矯の説と思われるかも知れないが、事情のご理解を得て、できるならば他日の詳論を予定したい。本稿で「いわゆる光明立后の詔」とするのは、『続日本紀』天平元年(七二九)八月壬子条にある二つの詔勅のうち、前者を光明立后の詔とするのが通例であるが、これは光明立后の事情を弁明した詔で、皇后冊立の詔は、内容が収録されていないけれども八月戊辰条の皇后冊立の記事にある「詔」と考えたからである。
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