映像と日常の変貌
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概要
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イメージの制作過程に近代テクノロジーが介在することによって、イメージは「エイコン」-原因ないし根拠としての「なにか他のもの」と類同関係にあるイメージーから、「パンタスマ」-「なにか他のもの」との関わりをいっさい失って、感覚的性質そのもの(純粋な表面)となり、しかもなお実体的であるかのように受容されるイメージ-ヘと変質し、そのうえ大量生産・消費の対象となったと考えられる。このように変質したイメージは、さらに、電波という媒体によって、時間的、空間的、個体的などのあらゆる差異を超えて拡散されてゆく。現在ひとびとの住む世界、日常の世界は、このようなイメージ、マス・イメージによって満たされ、あるいはむしろこのようなイメージによって作りあげられていると考えられるが、にもかかわらずひとびとはたしかな、実体的な世界に生きているという信憑をいだいているのだろう。人間はもはや「世界内存在」なのではなく「イメージ的世界内存在」というべきでさえあるのに。ところで、マス・イメージは、通常の意識にたいしては、たしかに「純粋な表面」にほかならないが、反一意識ないし無一意識にたいしては、その背後に暗黒の反一世弄ないし無一世界をもつものとして現れるとも考えられる。ひとびとは、この世界のなかで、みずからの意志にもとづいて合理的に行動していると確信しながら、他方では暗黒でカオス的な反一世界と、無一意識的に交流しているのかもしれない。すくなくともパンタスマとの遭遇によって、意識が明瞭な分節を欠如した、非合理の状態に退行することは十分に考えられるだろう。かつて芸術という聖域のなかで自足していたイメージは、このような世界においてなおそれとして存在しうるのだろうか。このことを問うことなしに、現代における芸術をとらえることは、おそらくありえない。