座田維貞 : 和気清麻呂の顕彰者
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概要
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江戸時代後期に院雑色を務めた座田維貞は現在、忘れられてゐるが、幕末のころ、実務に長けた官人でありながら、儒学と国学を兼ねた学者にして、尊皇思想の実践家として重要な働きをした。その立場上、表立って指導していくことはなかったが、時の関白や大臣、また公卿の間を取り持ち、時には利用し、事を処理していく実務面に能力を発揮した。今まで維貞についてまとまった伝記類はなく、不明な点も多かった。そこで、本稿は数少い史料に基づき、二十五年に亘る活動期の中から重要な働きを取り上げ、事績とともにその思想と精神を明らかにしようとした。明治維新に至る前段階の裏方の魁として、維貞を評価することに歴史的な意義が認められる。主な論点、要点は次の通りである。 (1)自著の『国基』(天保八年刊、安政二年再刊)は儒教を必ずしも排斥せず、水土論によってわが国体の独自性、主体性を説いた。この書は当代だけでなく、明治から昭和前期まで思想的な影響を与へた。(2)弘化三年に公家の子弟の学問のため学習所(後の学習院)が設置されると同時に雑掌に就き、庶務を担当した。後には講読の手伝ひも兼ねて、教学にも携はった。(3)菅原道真作と伝へられてきた『菅家遺誡』に付け加へられた二章の普及に力を入れた。その上、この要言を刻んだ石碑を北野天満宮と大坂天満宮に建て、和魂漢才碑として広く知られるやうになった。また、この摺本を販売し、和魂漢才が思想として定まる端緒になった。(4)右の(1)の普及と(2)(3)の活動は維貞の独力でなされたものではなく、関白、大臣、法橋、北野寺の僧など周辺の人々が組織的に動いたことにもよる。この協同があったからこそ、当時の思想を導くことができた。(5)和気清麻呂の功績を讃へ、その顕彰に志し、嘉永二年に「和気公追褒の建議」を奏上し、その翌々年、孝明天皇は、神護寺内の清麻呂の霊社に正一位護王大明神の神階神号を授けられた。さらに、清麻呂を評価する「和魂漢才實事篤行」碑を建立した。(6)同じころ、伝清麻呂真筆とされる「我獨慙天地」が世に出て、摺本として広がっていった。これについて、この書は真筆ではなく、維貞が造語して自ら筆を取ったのではないかと推定される。(7)五十代後半の安政年間、維貞の名が知られるにつれ、その人物を評価する正反対の見方が出てきて、身辺が緊迫してきた。維貞は真面目な吏職であるが、立場上、動きにも制限があり、世を動かすには上層部に取り入る必要もあった。そのことから誤解されることもあったであらう。(8)維貞の書いた文書類だけでなく、和歌、漢詩も収集できたものはすべて掲げ、解説した。
- 京都産業大学の論文
著者
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