1953年-57年の時期におけるオーストラリアの日本への対抗的アメリカの兵站基地としての役割の探求
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概要
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第二次世界大戦後の時期、オーストラリア政府、とりわけ、チフリー、メンジーズ政府は、自国を冷戦における連合国の兵站基地として確立することを計画した。チフリー政府は、オーストラリアを英連邦の軍需工場として展開することを構想し、他方メンジーズ政府は、アジアにおけるアメリカの冷戦遂行のための軍需物資の補完的生産供給源として展開することを構想した。本稿は、手短かに、チフリー政府のオーストラリアを英連邦の兵站基地として展開する企てを跡ずけた後、メンジーズ政府のアメリカの兵站基地としてのオーストラリアの役割の探求を検討する。また、分析点として、本稿は、なぜメンジーズ政府のオーストラリアを極東の軍需工場として展開する企てが、失敗に帰したのかという問題を提起する。本稿では、メンジーズ政府のその企ての失敗の主要な原因として二つの点が指摘される。第一に、1950年代、アメリカは、南西太平洋の個別的戦略的重要性の認識を持っていなかったことである。アメリカは、南西太平洋のような「戦略的よどみ」の中に兵站基地を設立することを好まなかったのである。第二に、アメリカは、オーストラリアを主要な軍需工場として展開することが、日本列島に一極集中化しつつある極東の工業的製造ベースの分散化を持たらすことを恐れたのである。日本列島に排他的に集中化しつつある極東の工業的製造ベースの分散化は、明らかに、アメリカの主要な戦略的基地としての日本の役割の経済的基盤を損なうのであった。しかし、たとえ失敗に帰したにせよ、メンジーズ政府が、冷戦の相当の期間、日本が享受したのと同等の役割、つまり、極東における軍需工場としての役割を探求したことは、オーストラリアの歴史上、非常に意義深い出来事である。もし、アメリカが1950年代、オーストラリアをアジア、太平洋地域における兵站基地として展開することに合意していたならば、オーストラリアは、今では、現在よりもはるかに意義深い、そして、日本と比肩する、または、日本を凌駕する工業国家として発展していたことは、間違いない事実であったかもしれない。
- 1996-12-25
著者
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