『入阿毘達磨論』における択滅の実在論証 : 教証としての「人経」
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概要
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アビダルマ仏教における最終目標は,あらゆる苦しみの止滅,すなわち涅槃に他ならない.諸部派のなかで一大勢力を誇った説一切有部は,一切有を基本に据える範疇論的な存在論を展開し,本来は「苦しみの不生起」を意味する涅槃に対しても「択滅」(pratisamkhyanirodha)という無為なる実体を想定した.しかしながら,有部の存在論に立脚する以上の涅槃理解は外部からの批判に晒される.有部がいかなる論証を用いて択滅の実在性を証明し,批判の克服を試みたかは注目に値する.一色大悟「有部アビダルマ文献における無為法の実有論証について」(『インド哲学仏教学研究』16,2009, pp.39-54)は,有部の無為法に対する実在論証に「作用の定義→作用の認識可能性(教証/理証)→実有の保証」という構造を指摘し,さらに択滅に限っては,その固有の本質が非聖者には認識されないために,非存在には許されない特徴を択滅に見出すことで実在論証が補強される点を指摘する,以上の指摘を踏まえ,本稿では一色[2009]では扱われていない『入阿毘達磨論』(Abhidharmavatara)に注目し,択滅の実在論証に考察を加える.範疇論を軸に有部教理を纏めた撮要書『入阿毘達磨論』は,択滅句義において『雑阿含経』所収の「人経」(Manusyakasutra)を引用し,実在性の教証とする.本稿では,「人経」自体の構造と趣旨を確認した後に,『入阿毘達磨論』において「人経」が教証として用いられる際の論理構造を明らかにし,当該の実在論証における本質的なふたつの特徴を指摘する.さらに,以上で明らかとなった『入阿毘達磨論』における択滅の実在論証と一色[2009]の指摘との関連について述べる.
- 2013-03-25