フランシス・ポンジュの「調停者ブラック」 : ヴァリアントがはらむ諸問題をめぐって
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概要
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第2次対戦後にポンジュのエクリチュールばかりでなく,政治姿勢が変遷するさまを記述・分析するうえで貴重な証言である「調停者ブラック《Braque le reconciliateur》」の成立過程はかなり複雑である。第1版はジュネーブの文芸・芸術雑誌『ラビラント』1946年12月号に掲載されたが,その直後の1946年12月中旬から1947年1月上旬のわずか1か月足らずに,重要なヴァリアントをふくむ2つの版が相次いで発表されたのである。しかし,この興味深い事実は研究者からはいまだに無視され続けている。今日までポンジュ研究者はこれら3つの版にまったく注意を払わず,「調停者ブラック」を論ずるさいには,初出から2年後の1948年12月に刊行された美術評論集『パントゥル・ア・レチュード』に収められた版を利用するか,ほとんどの場合,『トーム・プルミエ』(1961年),あるいは『アトリエ・コンタンポラン』(1977年)に収められた版(共に若干の句読点をのぞき『パントゥル・ア・レチュード』中の版を踏襲)だけを参照してきた。そこで,本論では,『パントゥル・ア・レチュード』に収められる以前の3つの版に的を絞り,それぞれの版の主要な異同を紹介・検討する。また,こうした目まぐるしい書換えがなぜ行われたのか,その理由についても考えてみたい。その準備として,まず1946年後半という時期がポンジュの経歴の中でどう位置づけられるのか概観し,さらに「調停者ブラック」の内容・構成について手短に整理しておこう。
- 日本フランス語フランス文学会の論文
- 1996-11-20