昭和初期の工場体操普及について : 産業衛生協議会答申と内務省社会局の取り組み
スポンサーリンク
概要
- 論文の詳細を見る
1930年代以降、逓信省簡易保険局が制定した国民保健体操(ラジオ体操)をはじめ、内務省および厚生省、文部省の各省庁、大日本体育協会(1942年に大日本体育会に改組)、全日本体操連盟などの関係諸団体から多数の体操が創案され、それらは国民体育振興策や国民体力管理政策を通じて国民に実践された。特に日中戦争勃発後は、国民精神総動員運動や紀元二千六百年奉祝事業を推進力として、学校児童・生徒だけでなく工場労働者らを含めた集団体操イベントが開催されるなど、戦時国民体育として体操の存在感は大きくなっていく。本研究は1930年代に国民体育として成長を遂げる工場労働者の体操に着目し、内務省社会局および関係団体の動向を中心とした工場体操普及の施策化の過程を明らかにすることを目的とした。工場体育は、1910~20年代の工場法や健康保険法の制定・施行など労働者保護の動きを背景に30年前後の時期に施策化された。その過程には暉峻義等(てるおかぎとう)らによって組織された産業衛生協議会の答申があり、そこではスポーツよりも体操を奨励する方針が明示された。このほか体操普及のための専門家の雇用や指導者講習会の開催、労働者の姿勢矯正や疲労回復を目的とした親しみやすい体操の考案・普及など、以後の内務省社会局による工場体操奨励がこの答申の線に沿って進められていったことを確認した。
- 2011-09-30