「黄色い人」論-家と風の隠喩-
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概要
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はじめに 遠藤周作の小説「黄色い人」は昭和三〇年一一月、雑誌『群像』に発表された。「白い人」と対になる作品で、「アデンまで」「白い人」とともに遠藤周作自ら出発期の代表作としてあげるものである。 この小説はこれまで、遠藤周作による日本人論的なもの、日本人の宗教心について書いたものとして読まれてきたことが多かった。たとえば武田秀美氏は「黄色い人」には「日本の仏教や神道に根ざした汎神論的神仏の世界と、西洋のキリスト教の唯一絶対神の世界との、精神風土と罪の意識の対比」「「黄色い人」である日本人のキリスト教の受容と、白い人である外国人神父の日本へのキリスト教の宣教と司牧」「背教司祭への神の救い」といったテーマが書かれていると評している1。遠藤周作がそのような問題意識を考えて書いていたということに異論はない。しかし、このようにテーマだけを取り出す読み方では「黄色い人」の動的な側面を見落としてしまう。それは遠藤周作の評論やエッセイの思考をなぞるといった作家論的作業から生まれてきた読みであって、小説を読む行為を通して得られる読みからは遠く離れてしまう。宗教をテーマとしている特殊性もあるため、このような作家論的読み方の重要性も理解しているが、本稿ではあくまで小説として「黄色い人」のはらむモチーフを考えてみたい。
- 2011-03-31