「究極のこの世の限界への突撃」とは何か──カフカの1922年1月16日付日記テクストの解釈──
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概要
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フランツ・カフカの1922年1月16日付の日記テクストは、きわめて重要な内容を含んでいる。この日記テクストにおいて、カフカは珍しく自分自身の文学的営みの内幕をかなり直截的にあからさまに語っているからである。しかし、この日記テクストは、同時に様々な「喩え」を駆使して書かれた、いわば詩的なテクストでもある。本稿の目的は、この日記テクストを詳細に分析・解釈して、ここで述べられているカフカの文学的営みの内幕を明らかにすることにある。 カフカがこの日記テクストにおいて言わんとしているのは、まず第1に彼の心のある種の分裂である。カフカは常にある種の2元論的な対立にとらわれている。それは、基本的にはカフカ自身の心の内部に存在するとカフカ自身によって信じられている2つの自己の対立に帰着する。さらに、そうした2つの自己の対立が根源的に意味していることは、非文学(的自己)と文学(的自己)の対立である。この日記テクストにおける「自己観察」・「駆り立て」・「究極のこの世の限界への突撃」という表現は、おそらくカフカの内部にある文学的なものの源泉もしくは原動力を意味している。ここで重要なのは、そうしたカフカの内部にある、それ自体カフカの心の働きのうちの1つである文学的なものの原動力の発動が、カフカの自覚的な意志とは関わりなく生じているということである。カフカは、この日記テクストの後半部分において、自分自身の心のうちに流れとして存在する文学的なものの源泉もしくは原動力(の発動)と、カバラにおける発散という概念の類似性を示唆している。「究極のこの世の限界への突撃」とは、カバラが説くところの発散によって生じた神的存在の流れに似たある種の流れとしてカフカの心のなかに存在する文学的なものの原動力である。
- 2011-03-31
著者
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