仏教の社会的存在証明(レゾンデートル) : 伴林光平の<転向>の事例から
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概要
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国学者伴林光平(文化一〇年生-文久四年歿)は、もとは周永の名を持つ浄土真宗の僧侶であった。光平は、その生涯において二度の還俗を行ったが、その還俗に至る思想的転換の過程をその著作からたどることができる。『難解機能重荷』(安政五年)では、仏教に対してキリスト教の布教およびその背後にある欧米列強の侵掠に対する防壁の役割を期待していた。これは当時一般的な護法論の主張の範囲内である。しかし、『園の池水』(安政六年)を経て、第二回目の還俗後の著作である『於母比伝草』(文久二年)になると、仏教の社会的な役割としてのキリスト教に対する防壁の役割はそのままでも、社会的に存在し得る条件は著しく制限され、国体を毀損しない限りにおいて神道の下位に位置づけられる存在とされるようになった。これは仏教を日本社会にとって有用か無用かという規準から、機能論的にとらえたものであり、その後の近代宗教史を予見させる点において注目すべき思想である。
- 2010-12-30