フーコーのデカルト読解
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概要
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ミシェル・フーコーは『狂気の歴史』で、デカルトの『省察』をたいへん独特な仕方で読解している。すなわち、デカルトがその古典的哲学書のなかで、方法的懐疑により絶対的真理のコギトを導きだす際に、そうした思考作業から狂気を不当に排除していたというのである。こうした読解に対しては、後にJ・デリダが批判をし、一連の論争にまで発展している。本稿の目的は、この難解な論争を解きほぐしつつ、フーコーのデカルト読解についてその読解内容と近代哲学批判を平明に解きあかすことにある。まずデカルトは、方法的懐疑のなかで、狂気の問題を提起しているにもかかわらず、実際に自分が狂っているのではないかとは懐疑しなかった。それはフーコーによれば、狂気が思考の不可能性の条件として排除されたからである。しかしデリダの批判によれば、狂気について懐疑されなかったのは、その後の夢の問題に同化吸収されたからである。つまり、自分は夢を見ているのではないかと懐疑した方が、世界全体がより疑わしくなり、懐疑の度合が深まるのである。こうした指摘を受けたフーコーは、狂気の状態を指し示すラテン語の原語、demensに注意を促している。この語は、真理を述べる法的資格の剥奪された状態をも含意していたと言う。つまり、自分が狂った主体であると認めれば、真理を省察する資格まで剥奪されてしまうのであり、こうした事態へのたんなる恐怖の感情から、デカルトは不当にも狂気を排除したのである。デリダがこうした狂気の排除を読みとれないのは、実のところ彼自身の哲学が、その狂気の排除という歴史的出来事に由来しているからだと言えよう。つまり、近代哲学はデカルト以来、狂気の排除により成立した理性的主体を伝統的に受け継いできた。デリダもまたそれをひそかに受け継ぐことで、狂気の排除を自身の「恥ずべき由来」として無意識的に隠蔽し、近代哲学の伝統を正当化したと言えるのである。