価値形態論における「商品語」について : 『資本論』における物象化論の適切な理解のために
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概要
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マルクスの物象化概念については、「人間と人間の社会的関係が物象と物象の社会的関係として表れる」という定義が定着している。だが、この定義が一面的にとらえられ、物象化がたんなる認識論的「錯視」として理解される場合も少なくない。本来、物象化概念は「錯視」という次元に収斂できるものではない。物象化概念においては、生産物が物象として「主体」となり、逆に生産者が「客体」となるという事態が実践において存立することが含意されているはずだからである。「錯視」はこの実践的関係の結果として生じるにすぎない。本論文は、このような物象化論の核心を、価値形態論における「商品語」の比喩をつうじて明らかにするものである。価値形態論においては形態ばかりに目が奪われがちであるが、同時にその形態においてどのような実践的関係が存立しているかが問われなければならない。このことを明らかにすることによってこそ、商品自身が自分だけに通じる言葉で語るという、「商品語」の比喩も明らかになる。労働生産物を商品として交換しあう社会においては、それぞれの具体的な私的労働は物象の関係をつうじて人間的労働として確証され、そういうものとして実際に編成される。もちろん、この事態がその意識に物象をつうじてしか現象しえない人間たちは、この「商品世界」固有の論理を「知らない」。しかし、にもかかわらずこのメカニズムの中でそれを支える実践を日々「行う」のである。このような意味で、商品語の比喩は、人間の行為をつうじて無意識的に人間の実践を規制する必然的メカニズムが成立するという実践的な転倒を表現するものに他ならない。いわゆる「取り違え」や「錯視」はこの実践的な転倒の基礎のうえに起こるのであって、その逆ではない。それゆえ、『資本論』の物象化論を総体として把握しようとするならば、商品語の比喩で述べられた論理を決して見落としてはならないのである。