環境倫理学における自由の概念とその問題
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概要
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近年、環境倫理学が盛んに研究されるようになったが、自然保護と自由をいかにして並び立たせるかという点について十分に取り組まれてきたとは言えない。だが私たちは、近代とそれ以前の倫理学との間の最も決定的な違いの一つが、自由の位置付けにあるということを見落としてはならない。今日では個人の自由が認められない倫理的社会というものを思い描くことすら出来ないだろう。ラディカルな環境保護論者は、環境保護は社会が優先的に取り組むべき重要課題であり、そのためには自由(とりわけ経済活動の自由)は制限されなければならないと主張するが、彼らはしばしば自由が今日持つ意義を忘れがちに思われる。私たちが自由を制限するにあたっては、如何にしてそれが正当化されうるかという点を熟慮せねばならないはずである。そのために本稿では、まずリバタリアニズムを検討する。リバタリアニズムのロジックとそこから見えてくる問題点は、なぜリベラリズムに基づいた社会が利他主義や連帯の理論的基盤を提供しえぬのかと同様、なぜ環境保護の倫理的根拠を提示できないのかを示すことになる。次にコミュニタリアニズム、とりわけC・テイラーの哲学をリベラリズムの校正者として位置付けて検討する。テイラーは個人主義を二つに分ける。一つは価値主観主義的であり、この個人主義にあっては価値は私的な決定により創出されるものであり、それゆえ普遍的に妥当する価値の余地はない。普遍的価値の余地はなく、自己は独話的なものとされる。テイラーはこれを批判し、自己が対話的に存在する表現主義的個人主義を展開する。この個人主義において、自己は対話の網の目の中に置かれ、価値は間主観的なものとなる可能性を有している。テイラーの個人主義と自己を巡る議論は、環境倫理を論じる上で有意義な視点を提示しており、自然保護を道徳的義務として論じるための基礎と成りうると思われる。