衆賢の業と刹那滅論 : 種子説と3つの譬喩
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概要
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刹那滅である業が,いかにして果報をもたらすことができるのか.我々がなした善・不善の行為は,時を経て必ず好ましいか好ましくないかの報いを得る.では,どうして業と果のつながりは必然であるのだろうか.有部における業果をつなぐはたらきを,無表に帰する考えは古くからあった.1.業果の結合にとって種子と果実のたとえは譬喩師,衆賢両者が認めるものであった.ただし,その譬喩が有効であるためには確固たる因果の基盤,すなわち心相続のように断絶してしまうものではない,三世実有,得,効能という諸要素が必要である事を衆賢は指摘する.従って,この譬喩は譬喩師には無効となるのである.なお,無表についてであるが,この箇所では全く触れられておらず,業果の結びつきを説明するために衆賢は異熟因や得,功能によっている.この事からも,無表と種子を同一視するのは誤解であるといえるのではないだろうか.また,衆賢が因果の役割を特に重視したことは拙稿[2009]にも指摘したことであるが,今回扱った箇所でも,効能という概念によって因果効力は決して失われることは無いことを彼は強調している.2.業の作者の刹那滅である事を認めたとしても,それが「異作異受」という過失には陥らない事を衆賢は3つの譬喩で示した.第1の譬喩によって業の作者とは異なる別の享受者がいる事は無いということを示し,第2の譬喩によって業の作者は業をなした刹那とそれを享受する刹那で「異なる」と表現できても,必ず業の報いを受けるという事を示した.また,業は直後に結果をもたらすのではないから,その結びつきがどのようにして成立するかを第3の譬喩によって示したのである.
- 2010-03-25