日本の新聞が報じたピウスツキ関係記事 (1903-1939) (上)
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概要
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ブロニスワフ・ピウスツキ(1866-1918)は、北東アジア先住民研究の草分けのひとりである。日本の新聞が報じたピウスツキ関係記事は12件が確認されている。本稿はそのすべてを忠実に翻刻・収録する。 「記事 1 〜 4 」は、ピウスツキらが行った1903年の北海道アイヌ調査にかかわり、「記事 5 〜 9 」は、彼が1906年にヨーロッパへ戻る途上で、日本に 7 ヵ月余り滞在した際の報道である。 本誌92号に掲載される「記事10〜12」はピウスツキ没後の報道。彼が1905年にサハリンを去るとき島に留まることを余儀なくされた、未亡人と遺児をめぐる物語である。 ポーランド人ジャーナリストのヤンタ=ポウチンスキとピスコルは、ブロニスワフの実弟であるユゼフ・ピウスツキ元帥の指示で、日本領「南樺太」における「遺族」の探索を計画したと報じられている。前者は1934年に遺族と首尾よく会えたが、後者の方は1939年に相次いで出来した政治的・軍事的大事件に妨げられて、計画は実現しなかったらしい。
著者
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