春秋時代の楚の王権について : 荘王から霊王の時代(東洋史,第五〇巻記念号)
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概要
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中岡における春秋・戦国時代という分裂・抗争の時代に、揚子江中流域を中心として北方の中原諸国と対峙した南方の雄は楚であった。この楚に関する研究は、同時代の他国のそれに比べて著しく遅れている。しかし、その強大化、さらにこの時代を通して強国たることを維持し続け得た原因については、これまで何人かの研究がなされている。すなわち、その強大化については春秋初期よりのいくつかの政治改革を通して楚が君権の強大化・中央集権的官僚政治の実現を目指したことに帰因するという説が出され、またその強国たることを維持し得た原因として、王室が世族勢力の伸長を防止する処置を伝統的にとっていた、とする説が出されている。これらの研究は、その問題としているところは楚の強大化、またその安定性であってそれぞれ異なっているが、いずれも楚においては王の権力が世族の勢力を抑えていたという見方をとっているように思われる。しかし、楚に関する史料を見ていくと、楚の王権が強力であったという見方に疑問をいだかせるような記述にしばしばぶつかることがある。また楚における世族勢力の強大さを説く説もあり、中でも宇都木章氏は戦国時代の楚の世族を研究され、戦国時代後半まで一貫して楚の政権の枢要を占めて、その国力維持を計ってきたのは世族であり、王はこの勢力を温存し、その力を自己の権力下に繰り入れることによって権力の強化と維持を計った、と説いておられる。このように楚の王権、特に世族勢力との関係については殆ど相反するような見解が従来出されている小論は、このような現状の楚の王権という問題について、春秋時代のほぼ中期に当たる荘王から霊王の時代を取り上げて、この時代王というものが楚の権力構造の中で実際にはどのような位置にあり、その権力の大きさはどれ程であったのか、を考察しようとするものである。荘王から霊王までを特に取り上げたのは、この時期が春秋時代の王権と楚国内の謝勢力との関係に関して、極めて示唆に富む状況を示しているように思われるからである。なお、この時代を考えるに当たり、小論は『左伝』を中心とした。
- 慶應義塾大学の論文