ヘーゲルの哲学的方法の体系的発展 : 若きヘーゲルの思索に於ける哲学と宗教の精神
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概要
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イエナ時代のヘーゲルは,もはやフランクフルト時代の様に,宗教,或は宗教性の中で絶対者に関する問題を探究するのではなくて,「生命」及び「生命あるもの」全体の領域に於て,更に「精神」の前段階に於て絶対者についての問いを押し進め,その場合同時に彼の哲学的思惟の体系化をより一層意識して努力し,「精神現象学」を準備する.しかし,宗教性の問題は彼の今後の哲学的発展に於て残存し,彼の思惟の完成の場合にもなお重要な役割を果す.ヘーゲルが,何故,これまで彼にとって中心的な領域であった宗教性の領域を棄て去ったかと云う理由は,彼の同時代の哲学者との対決を理解することによってのみ明らかにされ得る.このことは,1801-2年の「イエナ論理学」,1803-4年と1805-6年の「イエナ実在哲学」及び1807年の「精神現象学」に於てのみならず,本論攻では限られた範囲でしか考察出来ないが,完成せる体系として考えられ得る1817年及び1830年の「エンチクロペディ」に於てもまた跡ずけることが出来る.フランクフルト時代の終りまでは,ヘーゲルは宗教的生命に於ける対立せるものを媒介として絶対者を表出しようと努力したが,イエナ時代になると,まず全く反対に,根源的に媒介され,その後に分離する一者Einsとしての現実の中に絶対者を見出す.フランクフルト時代には,ヘーゲルにとって,絶対者が果して表象し得るかどうか,把え得るかどうかが問題であった.それと反対に,イエナ時代には絶対者が現実の中に於てのみ把握出来ると云うことが確実となり,絶対者がどの様な仕方で認識され得るかが課題となる.この関連に於て,ヘーゲルは絶対者に対して,様々な概念を用いている.即ち,"Einheit," "ursprungliches Eins," "numerisches Eins," "Totalitat," "absolute Identitat"などである.現実的なものとは,もはや媒介を必要とする外部から分離されたものではなく,反省と存在との根源的な統一に於て個々のものとして存立している.けれども,それ自身に於ける分離を生ぜしめる内的運動性は必然的に根源的統一を越え出て現実的なもの自身に於ける高次の統一をも再びつくり出す.フランクフルト時代にヘーゲルは宗教的問題性を導きの糸として,絶対者を人間と絶対者との間で対立しているものの統合として表象しようと試みた.今やイエナ時代では,他の方法によって,即ちまさに形成された弁証法によって,絶対者は宗教では表象可能に,哲学では把握可能になる.彼の哲学的思惟に於けるこの見せかけの転向の契機は,一面に於てはヘーゲルがまずシェリングとの共同の仕事で,主にカント,ヤコビ,フィヒテを批判していると云うことに存する.しかし,ヘーゲルの思索が以前と全く変らず,真の絶対者に向っている限りに於て,この対決は彼の哲学的な考え方全体にはいかなる本質的影響をも与えなかったのである.他面に於ては,様々の領域-宗教性,自然哲学,論理学,形而上学及び政治学-に於て,絶対者と云う統一を統一的方法によらずに獲得しようと試みたかのようにも,彼の当時の研究の仕方からして考えられる.しかし,「精神現象学」の準備期間に於て,彼の哲学の基本線は既に確定しているのである.即ち,自己分離を通じて根源的一者から自己同一性への発展である.この場合,反省の否定性はその肯定的価値評価を獲得し,それによって「生命形而上学」を越え出て,弁証法に於ける「精神形而上学」を可能とする.
- 慶應義塾大学の論文
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