幕末期における「Art」と「Beaux-Arts」の受容 : 外交文書の翻訳を中心に
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概要
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幕末、幕府への報告書において、現代とほぼ同じ意味で単語「芸術」を使用したのは南画家渡辺崋山であったが、この報告書は陽の目を見ることはなかった。ペリーの浦賀来航後、幕府は外交文書の翻訳機関として蕃書調所を設立したが、その頭取古賀謹一郎は西洋の言語学、天文、地理、数学、物産学、精錬学、器械学、画学、活字術等を総称して芸術とした。その一方で物産学から活字術までを百工技芸とする者もおり、芸術と技芸は一部重複した概念であった。その後、幕府はフランス万博(1867年)の出品分類等を入手したが、その和訳においてartを絵画、彫刻、建築、版画を意味する芸術と訳す一方で、arts usuelsを日用品の製作技術だけでなく、見世物をも意味する技芸と訳しており、芸術と技芸が重複しないよう訳し分けられていることが判明した。また、Beaux-Artsは「精工」、「細工」と和訳されており、その具体的内容は精密な図柄を持つ工芸品であることが判明した。
- 2009-07-31