社会学的思考と政治的なもの : デュルケムを中心に
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概要
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はじめに P.マナンは、「大革命」の後、「19世紀の人々は、市民社会あるいは国家のなかでのみ生きるのではなく、「社会」と「歴史」という第三の原理のもとで生きる」という。ここで、「市民社会」は諸個人の自己保存欲求によって取り結ばれる自発的関係を意味し、「国家」は、市民社会の秩序と平和を確保する道具であり、社会契約の所産である「人工的」な装置である。もちろん、この「市民社会」と「国家」の観念は、T.ホップズとJ.ロックに始まる自由主義的政治思想によって形成されてきたものである。これに対して、「社会」は「市民社会」以上のものであり、「社会」の権威は「歴史」の中に置かれるという。「社会」概念は、やや唆味であるが、諸個人が自発的に取り結ぶ関係というよりも、諸個人を包み、動かす力を備えた歴史的形成物を意味すると解しておこう。この「社会」への関心の広がりは、フランス史の文脈においては、大革命が中間的諸集団を破壊し、国家と個人という対立項に純化された関係を創出したことに起因することは言うまでもない。保守主義、自由主義、社会主義、社会学とほとんどすべての思想潮流が「社会」の再興または創出を志向し、「政治的なものle politiqueを社会的なものle socialの中に埋め込むencastrement」様式をそれぞれ求めることになる。P.ロザンバロンが言うように「19世紀は社会学の世紀」なのであり、この時代以降「社会的なものの欠落」を充足することが政治的意味をもつとともに、「政治的なもの」は「社会的なもの」との関係を抜きにしては語れなくなると言ってよいだろう。ところで、「政治」と「社会」との関係をめぐっては、周知のように、S.S.ウオーリンの古典的になった考察がある。ウオーリンは、18世紀以降、「全体を監督」する「権威」に結びつけられていた「政治的なるもの」が「社会」へ吸収・転移・昇華され、拡散するにいたったことに「政治秩序の政治的性格の下落」の問題を見る。そして、18世紀におけるロック以降の自由主義と並んで、19世紀における保守主義、アナーキズム、さらに、サン・シモンからコントを経てデュルケムにいたる実証主義的社会学の系譜が、「政治」から「社会」への視角転換を推進していったととらえられている。本稿は、A.コント(1798-1857)の造語になる「社会学sociologie」を経験科学として確立し、19世紀フランスにおける「社会的なもの」の探究の終端に位置すると思われるE.デュルケム(1858-1917)における「政治的なもの」を中心的な考察対象とするが、本稿の視角との関係で、今見たウォーリンの議論に関して、幾つか注意しておきたい。第一に、伝統的政治哲学を批判し、社会の再組織化を標傍して、「社会」へと関心の転換を推進していったのはこの社会学の系譜であり、それは固有に政治的な問題への問いを軽視する傾向があり、この点は実証主義的社会学の根本的な問題点に関わっている。しかし、社会学が伝統的政治哲学を批判したのは、近代社会にあっては経済的諸関係が圧倒的重みをもつにいたって、政治社会や国家がそれを把捉しえないという事態を見ていたからであり、この認識を欠いた、アリストテレス流の「政治」の擁護は意味をなさないと考えたからである。近代社会の構造的特性を考えれば、社会学的思考が政治理論に突きつけている問題の意義を軽視してはならないであろう。第二に、フランス革命以後19世紀を通じてフランスの政治問題の焦点になったのは、共和制の確立であって、17世紀、18世紀に市民革命、独立革命を行い、その後政治体制をめぐる大きい混乱もなかったイギリス・アメリカとは事情が異なることは言うまでもない。フランスでは、この混乱に終止符を打つためにこそ、中間集団の再興による「社会」の創班が不可欠だったとすれば、「社会的なもの」への関心の増大が、「全体を監督」する「権威」に結びついた「政治的なもの」への関心を根本的に排除するとは言えないであろう。P.ビルンボームは、『政治的神話:ユダヤ的共和国。レオン・ブルムからマンデス・フランスまで』のなかで、国家社会学の観点から、市場社会化によって惹起される公共空間の「私化」が国家秩序と市民権の不可避的衰退をもたらすというような、H.アレントやJ.ハーバーマスに見られる一般的解釈とは逆に、世紀転換期のフランスでは、公共空間と私的空間の厳格な分離という「共和主義体刺内での国家の強化」が起こったと述べている。デュルケムが活躍した時代は、まさに共和主義原理が確立し、「国家の強化」が生じた時代なのである。「社会」と「政治」との関係には複雑で多様なベクトルがあるのかもしれないし、「社会的なもの」に対する構え自体にも、多様性があったであろう。デュルケムは、リベラリズムが警戒していた「社会の専制despotisme」という問題を無視しないし、彼の「社会的なもの」の概念自体、両義性を帯びていたように思われる。ウオーリンがP.J.ブルードン(1809-1865)に引きつけて述べたような「社会の賛美」や「政治的なるものの廃棄」といった表現が、デュルケムにも妥当するといった先入観は括弧に入れてかかる必要があろう。第三に、この時期のウオーリンのように、政治的なものを「全体を監督」する「権威」に結びつけ、他のものに還元できない「政治的なもの」の固有性を重視する立場から見れば、「社会的なもの」の創出は、「政治」を「社会」に引き下げ、「政治的なもの」の変質をもたらすものであろう。確かに、社会学的思考が政治の固有性を見えにくくしてきたことは否定できないとしても、「社会的なもの」に焦点を絞ることによって、「政治的なもの」を「全体を監督」する「権威」に結びつける思考では見過ごされていた問題、すなわち、「社会的なもの」から分離された政治ではなく、「社会的なもの」における政治の問題が見えてくることもあるであろう。以下では、「社会的なもの」の探究を通じて、デュルケム社会学が、社会学に対する先行思想として、「政治的なもの」を国家に結びつけてきた共和主義と自由主義の問題構制をどのように組み替えたか、そして、「政治的なもの」についてどのような考察視点を持ち得たか、という点を中心に考察したい。
- 2003-04-30