帝国市民の育成 : カナダにおける帝国記念日
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概要
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19世紀末から20世紀後半にかけてのカナダとイギリス帝国の関係はいかに変容したのか。従来、とくに政治外交史では、第1次大戦の戦争貢献がカナダの発言力を向上させ、ウェストミンスター憲章がカナダのイギリス帝国からの自立を画したと描かれるなど、「イギリス帝国圏からアメリカ合衆国圏へ」ないしは「アメリカ化+多民族化の進行=イギリス帝国離れ」と図式的に捉えられてきた。これに対し本稿は、少なくとも1950年代中葉までは、カナダ社会におけるイギリス帝国のプレゼンスは大きく、カナダの社会統合にとってイギリス帝国への帰属意識が重要な意味を持っていたことを示し、先の図式の修正を試みる。具体的には、19世紀末にオンタリオ州で発案され1970年代初頭まで続いた帝国記念日(エンパイア・デー)を素材として論ずる。第1に、帝国記念日の発案から採択に至る過程を考察し、帝国記念日が、イギリス帝国との絆を維持した形でのカナダの社会統合の必要性を青少年に訴える祝典として企図された点を明らかにする。第2に、1899年の最初の帝国記念日祝典をオンタリオ、ケベック両州について分析する。ローカルな記憶である「ロイヤリストの伝統」の根強いオンタリオ州では盛大に祝われたのに対し、ケベック州では、イギリス系(プロテスタント)の祝いとして、フランス系は無関心を示した。第3に、オンタリオ州の帝国記念日を1970年代初頭まで考察する。同州の帝国記念日は、イギリス系、非イギリス系を問わず、イギリス的民主主義や制度、イギリス臣民の特権を説く装置として機能していた。また、多民族化が進行するカナダ社会と多民族・多宗教の統合体としてのイギリス帝国とがパラレルに描かれたように、カナダがイギリス系を頂点としたヒエラルキー的多民族社会の統合・維持を図るにはイギリス帝国への帰属意識が重要と考えられた。こうした言説は、1950年代中葉まで見られたが、以後、イギリス帝国の解体が加速するにっれ消滅していった。