長承・保延の飢饉と藤原敦光勘申について
スポンサーリンク
概要
- 論文の詳細を見る
本稿は、平氏政権から鎌倉幕府に至る日本における武家政権成立という歴史現象を十二世紀前半以来の社会的矛盾の展開の中から解明しようとするための作業の一階梯として試みたものである。分析対象は、崇徳天皇が長承・保江の飢饉への対策を求めたのに応じて、藤原敦光が保延元年七月二十七日に提出した「勘申」であって、この飢饉で生じた社会的矛盾の基本的あり方を明らかにしようとしたものである。敦光の視野に入っていた問題状況としては、中央における財政難問題、国司ルートを通じての徴税問題、その社会において生じていた私的高利貸し問題等があったが、中心軸は徴税に関する問題であった。その国司ルートを通じての徴税に関しては、検田を行なわないで利田請文による場合には強制出挙というだけでなく未進が負債とされるという問題が生じており、また検田手続きを経る場合でも公田官物率法を高くするという問題が生じる等、過酷な重税が現地農村社会を圧迫し疲弊させるという事態が展開していた。このような国司に依る徴税が横行している中で、神人・悪僧が、神威・仏威を悪用して国司の徴税にも応じないという状況が生じていた。その結果、中央に納められるべき物資が不足することになり、中央官司に勤務する人々の月俸などが滞る事態となっていた。社会状況としては、都で低利で借りて、地方で高利の貸出しを行なうという業者が生まれ、その厳しい取り立てによって追い詰められ、逃亡したり、妻子を奴婢に売ったりさせられる人々が続出していた。この私的高利貸し活動は、国司に依る過酷な徴税と相まって、飢饉状況下、公私の高利貸し資本が農村を収奪するという状況を生じさせていた。鳥羽院政期は荘園寄進が続出し領域型荘園の成立期とされるが、国司による徴税問題を中心に論じた敦光勘申には、神人・悪僧問題への言及はあるものの、荘園乱立問題への言及がみられないという特徴があった。