王家[カ];『日本の近代化と儒学』を読む
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概要
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儒教や儒学ほど、東アジアの人々に複雑な心情を引き起こすものはほかにない。長い文明史の中で、儒教や儒学は東アジアの国々(特に中国、韓国、日本、ベトナム)の生活上・政治上の教訓として、様々な影響を人々に及ぼしてきている。東アジア文化というものがあればその核心となるものには儒教や儒学があるといってもよいであろう。一方、伝統社会におけるその影響の大きさとは裏腹に、近代に入ってから東アジアの各国の儒教や儒学に対する評価はきわめて低かった。多少はニュアンスの違いもあろうが、各国の啓蒙思想家は儒教や儒学について全面否定の一途を辿り、公式的に近代化の阻害要因としてしか儒教や儒学を捉えられない時期が相当長い間続いていた。儒教や儒学の衰退するさまは、そのまま19世紀アジアの衰退ぶりに見合ったものであり、アジア人の悲惨な運命の行方を占うに格好な指標でもあった。こうして19世紀から20世紀前半まで、アジアが転換を迫られたこの時代を通じて、儒教や儒学は心に思い描く理想郷というよりも呪うべきアジアの過去を代表する思想原理や道徳倫理の残滓、マイナスの存在であった。このような近代化の風土の中で東アジア各国の人々は新しい国造りを夢見ながら、近代という理想郷を求め、伝統思想や伝統文化との訣別を強いられていく。しかし近代との取り組みが進めば進むほど、人々は近代化に伴う様々な矛盾や苦悩に対しても敏感になり、近代社会の不備への疑問を抱くようになった。そして儒教や儒学にはことによると西洋近代思想や倫理にないようなものがあるのではないかと思い始めた。その代表として近代中国では初期の新儒家たちを挙げられるが、20世紀80年代の改革開放最中の中国では、王家[カ]の中日儒学比較研究(『日中儒学の比較』六興出版、1988年、『日本の近代化と儒学』農文協、1998年)もその一部と考えられる。社会主義、共産主義等のイデオロギーの強迫観念のごときものに基づいて儒教や儒学の批判を行ってきた従来の傾向とは別個に、儒教や儒学の近代的意味を思考し、模索し始めたことは意義深い。
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