記号としての芸術
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概要
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写実主義の絵画やノンフィクション文学等の芸術作品は、記号とみなすことができる、という考えに問題はないだろう。これらは何らかの実在するものを表しており、したがってそれらの記号となっている。しかし、通常、実在するものを表してはいないと考えられている、抽象絵画や音楽等のいわゆる抽象芸術、あるいは文学でもいわゆるフィクション等は、何らかの意味を有するのであろうか。これらを含めて、すべての芸術作品を記号とみなすことが可能であろうか。モリスは、芸術作品はすべて記号とみなすことが可能であると主張している。さらに、彼はすべての科学を体系化し、それらを統一しようとする"統一科学"の一部として、美学を記号論としてとらえるという構想も述べている。筆者もこのようなモリスの主張と構想を支持するが、しかし、彼の理論は時代的制約もあり、必ずしも完全なものとはいえないと思われる。特に、彼の理論では、意味についての分析が不十分と考えられる。現代の英米系の記号論では、フレーゲやカルナップのように、意味を内包と外延の2つに分けて考える立場がある。そして、これらはライプニッツによって始められ、カルナップやクリプキによって発展させられた可能世界意味論において、可能世界という概念を用いて分析される。この論文では、このような現代の英米系の記号論の枠組にしたがって、モリスの考えの不十分な点を補い、彼の説の正当化を行おうと思う。