教育における対話の可能性 : レヴィナスの「レトリック」概念をもとにして
スポンサーリンク
概要
- 論文の詳細を見る
本稿は、レヴィナスの「レトリック」概念に着目し、教育における対話の在り方を明らかにしている。まず、対話の根源的な構造や機能の分析を通して、私が他者と向かい合うさいには、他者に応答しその教えを受け入れるという本源的な責務が課されるのであって、そのような責務のもとで、他者とのことばの共有や、そうした共有からの超越も可能になるということを述べた。次に、ソフィストの教育術とソクラテスの助産術とを比較し、前者においては「他者の返答の自由を買収する」レトリックが働くのに対して、後者においては他者の他者性や異質性が尊重されることを明らかにした。最後に、教育の場面においてもレトリックが用いられがちであることを、教師がしばしば子どもに向けて発する「わかりましたか」ということばを別に挙げて説明した。そして教師は、教えるという行為の倫理性に目を向け、学習者に対して、自らの知識を注入することを目的としてことばを発するのではなく、学習者に対するひとつの応答としてことばを語りかけていくべきであり、そのような形で学習者とともに知を紡いでいくべきだと結論づけた。