漱石後期作品『こころ』における心の位相(短期大学部保育科)
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概要
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かねがね私は、漱石作品は言い換えれば「漱石版-文法白書」であると論じ続けてきた。いわゆる漱石の小説自体が「文法白書」であり、「日本語のありかた」そのものであると究明してきたのである。作品世界の、「人間とは一体何か」「こころとは何か」-日本人の心のあり方、葛藤、愛の矛盾、そういった生の本質が実は、即、言語の論理と体系に深く根をおろしていることの意味を、実は作品が我々に語り続けていることを鑑みてきたわけである。その国に生きている人間の精神性はことばとなって表され、それが文法として体系づけられる。日本語の文法の生み出す発想と、英語の強い自己表現の文法が生む個人的、合理的な発想とが異なることは作品の構成と内容に如実に語られるものである。作品『こころ』において、「先生」「k」「私」「奥さん」という人間関係の中で、「私」のもつ役割はきわめて重要であった。一番個性の輝きの薄いロケーション、そこに「私」が置かれていた。「私」は一番若く、一番未熟であった。ここにこの作品の真意を解く鍵がある。「私」の存在の真なる意義、愛と個人主義の矛盾、中味と形式の問題を通してこのたびここに新しい結論と展開を生み出すことができた。それは、作品『こころ』が西洋的見地にありながらも初めから終わりまで日本文化の粋を見出していることに関与する。私はここに、漱石の深遠で精緻な提唱があるのではないかと思う。
著者
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