アルメニア・ミッレト憲法第一草案
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概要
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1840年代以降オスマン帝国下の非ムスリム共同体において、共同体運営をめぐる改革が試みられた。最終的には1860年代に「ミッレト憲法」と呼ばれる規定をそれぞれ政府によって承認され、新たな共同体運営方式を確立していくことになる。アルメニア・ミッレト憲法が政府の承認を受けるのは1863年のことであるが、最初に草案が提出されたのは1857年のことであった。この草案は、従来の研究において存在は知られながらも、それ自体は失われてしまったと考えられてきた。本稿では新たに発見された1857年草案の概要説明、政府の承認拒否理由に関する考察、ラテン文字転写を行った。1856年付のアルメニア語定期刊行物によれば、1855年に開かれた共同体議会において、ミッレト憲法起草委員会の結成が決定されたという。聖職者と俗人双方を含む委員会により起草された草案は、1857年3月22日に共同体議会の承認を得た上で政府に提出された。12章、100条からなる本草案は、1860年の第二草案が持つ体系性を既に備えており、アルメニア・ミッレト憲法の土台が1857年の時点で形成されていたことが確認できる。しかしオスマン政府は、1857年草案の承認を拒否することになる。承認拒否理由として明確に述べられているのは、アルメニア・ミッレト憲法に先立って、東方正教徒のミッレト憲法を承認することをオスマン政府が適切であると判断した、ということである。これを裏付けるようにオスマン政府は、東方正教徒ミッレト憲法の承認を決定するのと同時期に、アルメニア総主教座にミッレト憲法起草委員の選考を命じたのだった。一方で、第一草案には内容面でも不適切な点があったことが述べられている。詳細は明らかにされていないものの、最終的に政府の承認を受ける1863年版との比較、及び他の文書史料の検討から、総主教に関する条項が不十分であった点、俗人評議会が聖職者の権限を侵害していた点、オスマン帝国領外の諸事に対する言及が見られた点が、政府の承認を妨げた要因であったと考えられるのである。
- 2007-07-31