文化産業論再考 : 「否定弁証法」における「つづき」
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概要
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本稿は、『啓蒙の弁証法』の「文化産業論」と『否定弁証法』の「モデル2」を扱うものである。一般にはたしかにアドルノの文化産業論は時代遅れの烙印を押されている。特にその場合、彼の「エリート主義」が非難されている。だが、彼の文化産業論は、決して文化の理論ではなかった。彼の批判の目標は、社会構造場の諸現象を手がかりにして、社会的変化を把握することであった。したがってそこで問題となっていたのは「低俗な」文化を糾弾し、「高尚な」文化を称揚することではなかった。 では、いまなお彼の批判は、現代の状況に対して有効なものだろうか。答えはおそらく、「否」である。だが、文化産業論自体が十分に有用なものでないといって、それが忘れ去られてよいわけではない。 問題は、啓蒙が大衆に対する全面的な欺瞞に転身することが「必然」であるかどうか、頽落することが避けられえないのかどうかである。 実は、「文化産業論」には「つづき」があるのだ。『アドルノ全集』の編集者であるR・ティーデマンは『啓蒙の弁証法』(『全集第3巻』)の後書きで、次のように記している。「アドルノが折りに触れて、文化産業の小の「印刷されないままとなっている部分」と語った、つづきの部分が遺稿の中から発見された。そのテクストは本書で補遺として付されている」。注目すべき結論部においてアドルノは、「人間が悪夢から覚めるかどうかは人間次第である」、と記している。彼に希望は失われていないのだ。それは「モデル2」に日々いている。その声音が微かだとしても、たしかにそれは反響している。文化産業論は『啓蒙の弁証論』の問題構制をこえて今一度再考されねばならないであろう。