日本陸軍における仏式統一と「徴兵規則」の制定 : 大阪兵学寮操業の成果
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概要
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明治三年一〇月、兵部省は陸軍兵式を仏式に統一すると布告した。仏式は、明治二〇年に陸軍大学校教官として来日したドイツ陸軍のメッケル少佐の勧告にしたがってドイツ式に転換されるまで日本陸軍の兵式として採用された。そのため、この期間は各種の陸軍学校ではもっぱら仏式による教育が行われることとなった。しかし、大村益次郎の遺策である大阪兵学寮では明治三年一月の開校時からすでに仏式に倣った教育がなされていた。仏式での兵式統一がなされた当時、英式を主張する薩摩藩勢力と仏式を主張する山口藩勢力との対立は深刻であり、しかも英式を採用していた諸藩が多かった中で、大村は山口藩の意向とは無関係な別の地平に立った上で仏式採用に強いこだわりを持っていた。この大村の遺志に沿って、兵制統一の布告の前でも、大阪兵学寮での教育は仏式で行われていたのである。そして、この大阪兵学寮の実績が仏式統一を後押ししたことは疑い得ない。しかし、兵制統一問題における英式と仏式の対立の中、仏式での統一がどのように実現したのかについての研究は、明治六年の「徴兵令」制定前後のいわゆる仏式か普式かをめぐる研究に比較しても、決して十分とはいえない。 また、大阪兵学寮は将来の徴兵制の導入を前提に、大村が国民軍隊の基幹となる士官を養成しようとしたものであった。そのため、大村においては士官教育のめどが付いた時点で徴兵制を施行する構想を持っていた。大村の死後、その建軍プランの実現は極めて困難な状況になったが、兵部大丞山田顕義ら大村の後継者達は明治三年一一月に徴兵制の一部実施となる「徴兵規則」を発布するに至る。つまり大阪兵学寮の操業と同規則の発布は不可分の関係にあるのだが、両者の関係および大久保派との対立の中でどのように実現したものかという問題については今日必ずしも明らかではない。これまで、「徴兵規則」については、それが制定後わずかに半年で廃棄されたことからあまり重要視されてこなかったためである。 陸軍における仏式統一と「徴兵規則」の制定は密接に関係した事業であり、それらは兵学寮の操業によってもたらされた。そして、その何れも大久保派との対立の中で決してスムーズに実現されたものではなかった。それら事業の実現の過程において両派が何を論点として対立していたのか。本稿では、兵学寮と仏式兵制・「徴兵規則」の不可分の関係を確認しつつ、大村の遺策が彼の後継者によってどのように実現されたのか、その過程の実相について分析している。