関東大震災後の日語学校の再建-大正期における宣教師に対する日本語教育をめぐって-
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概要
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研究ノート本論文は、1913年に欧米人に対して日本語と日本文化を教授するために創設された日語学校を事例に取り上げ、大正期後半の宣教師に対する日本語教育の状況を明らかにしたものである。日語学校は、関東大震災後、生徒数の激減により学校の存続が問題となった。その後、二つの場所で学校を経営したり、貨物物件による校舎を使用したため、学校経営は行き詰っていた。しかし日語学校は、1930年まで六度も校舎を移動しながら存続し続けた。 本研究ではこうした日語学校の存続理由を明らかにした。日語学校では生徒数の確保に対応するため、特にギルバート・ボールズ校長代理の時期に公開講座と研究クラスによる日本歴史研究が導入された。これによって日語学校は学校に籍を置く学生だけでなく、公に日本の歴史について紹介したり研究を行う機関となった。このような取り組みの背後には、来日してくる宣教師に課されていた宣教師側の要求があった。大正期末の宣教師には日本語だけではなく、多方面の仕事に就くことのできる資質と日本における諸団体との連携が必要とされていた。1930年に日語学校が日語文化学校と改称していくのは、このように日語学校が日本文化事業を新たに着手していったことの表明であった。
著者
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