凝然と東大寺
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概要
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示観国師凝然(1240〜1321)は、鎌倉期に東大寺教学復興にあたった学僧として、また『八宗綱要』をはじめとする膨大な著述を遺したことで知られる。さらに、戒壇院長老として多方面の著述を為し、国師の称号まで承けている。このような凝然であるが、彼の東大寺における立場は非常に特殊なものであった。当時、僧侶として出世し、学僧として名を上げようとするならば、数多くの論義に参加することが最低条件であった。にも拘わらず、凝然は論義にまったく参加していないのである。論義に参加するには、仏教教学を専門に学ぶ学侶になる必要があるが、凝然はこの学侶ですらない。つまり、凝然が東大寺随一の学僧という名声を博しているのは、きわめて特異なことであることが分かる。凝然のような特殊な立場は、何に起因するのであろうか。おそらくは、源平争乱の煽りで壊滅的な打撃を被った東大寺の復興という一大目標のために、東大寺が凝然のような博学多才な人材を必要としていたことが大きな要因あろう。そのために、凝然は学僧ではあるが、学侶ではないという独自な道を歩むことになるのである。