戦前期における「仲人結婚」の規範化過程(IV-8部会 家族と教育,研究発表IV,一般研究報告)
スポンサーリンク
概要
- 論文の詳細を見る
「人は死ぬまでに三度仲人をやれ」という言葉もあるように、日本における結婚の重要な特色として「仲人」の存在を挙げる論者は多い。R・ベネディクトの『菊と刀』に代表されるように、海外の研究者によっても仲人は日本文化の特質としてしばしば記述されてきた。だが、仲人結婚とはもともと、人口の一割未満に過ぎぬ武士階級における婚姻慣行でしかなかった。こうした仲人結婚が人々のうちに浸透し、規範化されていくのは明治期である。この規範化の過程を解明することが本報告の課題である。日本の近代化の最初の局面では、逆説的な現象であるが、仲人結婚の制度が農民や都市労働者階級といった民衆レベルにまで拡がっていった。ではなぜ近代以降に仲人結婚が人々の結婚の「正統モデル」として規範化していったのか。これまでその過程を詳らかにする研究はほとんどなされていない(上子、1991)。戦前期には「媒酌人のいない結婚は野合である」という規範が民衆にとってかなり一般的であり、戦後もなお根強く残っていたことを鑑みれば、この規範化の過程を明らかにすることは重要であろう。明治の政府や知識人にとっての緊急かつ最重要の課題は西洋列強国へ仲間入りすることであった。そのために、「離婚大国」の「汚名」を返上し「文明国」たることが急務であると認識された。また、国民国家樹立にあたって「国民」を統制し把握するために、安定的な婚姻率の確保ということが重要な課題となった(井上、1973)。こうした要請の中、政府は明治31年に民法を公布し、「家」を単位とする戸籍制度を確立する。これにより、明治31年から32年に離婚数はほぼ半減している(湯沢、2006)。ここにおいて家族のあり方が儒教道徳を拠り所とする「家」を中心としたものであることが国家の側から明確に規定されたといえる。公布された民法には、「媒酌人」に関する条項は一切記されなかった。しかし、民法編纂過程で江藤新平らが提出した『民法第一人事篇』(明治5年)に「媒酌人ナクシテ婚姻ヲ為ス可ラス」の条があったという事実は、仲人結婚が「国家の要請」の一つとして確かに存在していたことの証左であるといえよう。では、なぜ仲人結婚を法で規定しなかったのか。明治期には、国家ですら抗うことのできない「個人主義化」、さらに「文明」「自由」などの啓蒙思想の隆盛という趨勢があった。それゆえ、法律では規定することのできない側面が多々あり、その一つが「仲人結婚か自由結婚か」という問題であった(阪井、1966)。それでは当時、国家はどのようにして「自由結婚」を抑制し、その対立項的な「仲人結婚」へと規範化させていったのであろうか。当時の進歩的思想家達は膨大な離婚数の主要因として、結婚が当人主体の自由な配偶者選択ではないという点を指摘している。すなわち、男女交際(プラトニックラブ)を肯定し、その延長線上に結婚を想定することには肯定的であったといえる。しかし、仲人結婚が規範化されていくためには、単純に欧化主義的価値観のみが肯定されたわけではなく、日本独自の家族主義的価値観が併存するという二層のメンタリティが作用していたと考えられる。こうした複雑なメンタリティは、政治戦略の場面においても有効に活用され、この後、健全な国民の育成の基盤、言い換えれば、健全なる国民を生成する家庭の存立基盤として定着していくのであった。折りしも、マスメディアの発達、女子教育の確立等により、思想的にはこれまでの隔離的男女関係からの解放(あくまでプラトニックラブ)、形式的には仲人結婚という折衷型の結婚規範が急速に拡まっていったのである。
- 2007-09-22