1874年の台湾事件における清国琉球政策の変化
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概要
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中国と琉球との関係は明の時代に始まり,双方は宗属関係で結ばれていた。つまり,中国は琉球の宗主国と自任し,琉球からの朝貢使を受け入れるとともに,琉球貿易船の来航を許可した。一方,琉球は中国の宗属国として,中国の年号を使用し,また国王交代時に,中国皇帝の委任書を受諾して,宗属国としての義務を果たした。後に,中国が清に変わってからも,両国の宗属関係は続けられた。琉球は中国と宗属関係にありながら,近世においては,同時に日本の薩摩藩に属していた。清国との形式的な関係とは異って,日本に実質的に支配されていたのである。しかし,古くから琉球側は日本との関係を清国に知らせておらず,明治以前の日本もまた琉清貿易の恩悪を享受しつづけた。このように,日本と琉球が日琉関係を隠してきたことによって,琉球の「両属」状態が形成されたのである。しかし,明治政権ができてからは,情勢が一変した。明治政府は1870年代のはじめに,琉球処分の方針を打ち出したが,71年に台湾で起きた琉球人遭難事件が格好の材料となった。従って,台湾事件によって,日本は琉球所属問題を解決しようと謀ったが,清国と対決する覚悟がなく,問題を曖昧にしてしまったのである。しかし,『北京協約』を恣意に解釈したことで,明治政府の一部が台湾事件によって,清国は琉球の日本領有を認めたと誤認した。これまでの多くの研究も日本政府の見解に同調した。果たして,清国は日本政府の見解通りに琉球の日本領有を認めたのか。本論は台湾事件における清国の琉球政策に焦点を当て,これまでの研究を検証した上で,滴国の琉球政策にいかなる変化が生じたかを明らかにするものである。
- 2001-03-31