近代日本における地方アイデンティティの形成 : 1909年の秋田観光
スポンサーリンク
概要
- 論文の詳細を見る
1909年(明治42年)夏、秋田県内の3新聞社が、東京などの新聞雑誌記者十数名を秋田県に招待した。目的は、秋田県の経済的・文化的な状況を実際に見て、読者に伝えてもらう機会を提供することであった。一行のうち新渡戸稲造、中野正剛、永田新之允など15名が約束通り体験記を記し、これは同年『知られたる秋田』として刊行された。この秋田観光記者団はいくつかの観点から興味深い。第一、全国的に傑出した記者らの旅行記が即座にアピールされた点である。第二、秋田県の近代経済・文化の発展のつぶさな観察にある。第三に最も興味深いのは、1909年の観光は、近代日本における中心(中央政権・主要都市)と地方の関係についての問題を提起するという点である。明治時代の秋田を含め東北地方として知られるようになった6県は、全国的にあまり認識も理解もされていなかった。中央政府や専門家らは東北地方の経済成長が遅いことを懸念し、いわゆる「東北問題」について論じた。東北地方内の識者は自立と繁栄をもたらす発展モデルを見出して「後進」のイメージを払拭しようと必死になった。本稿は、1909年の秋田観光とは、秋田県の指導者らが「東北問題」の根強い認識を克服するために講じた試みであったとを論ずる。彼らは「問題」ある地方の一部としての秋田に対するネガティブな認識を払拭し、豊かな自然と目覚ましい産業発展というポジティブな認識に変えようとした。世界中の経済先進国で地方の生き残りが議論されている今日、1909年の秋田観光は、地方が活力を持つことは当然でも簡単でもなく、地方の内外における多大な努力の成果であったことを語っている。
- 2007-03-15