「ラフであること」の本質? : 東南アジア大陸部山地民の民族帰属認知における柔軟性をめぐって
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概要
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本稿は、タイ山地民ラフにおける民族境界とその運用について検討するものである。民族帰属の可変性という問題はこれまで、民族帰属認知における生得的属性の否定という文脈でしばしば論じられてきた。特に東南アジア大陸部山地の諸民族に関しては、民族帰属が第一義的には慣習の選択に規定され、それゆえ自由に変更可能だという問題提起がくり返されている。しかし実際にそうなのだろうか。本稿では、主にキリスト教徒ラフの事例に着目し、そこでの「ラフであること」の論理について検討する。「慣習=宗教=民族境界」という先験的図式からは、外来キリスト教を受け入れた者はラフでなくなるか、あるいはキリスト教が「ラフの慣習」となっているはずであるとの仮説が導かれる。しかし現実には、この単純化された仮説は妥当しない。人々は改宗後もラフを称するが、そこではキリスト教徒においては宗教ど慣習とが峻別されているため、「キリスト教=ラフの慣習」との等式が成立しないためである。民俗理論による限りは人々の民族帰属を規定するのは宗教の選択ではなく出生である。ただし、人々の集団帰属を出生によって規定すべき親族範疇が、ラフにおいては著しく不定型なものとなっている。これは出自集団を欠き、また親族用語が暖昧に無限拡張される傾向に由来する。その結果として、親族用語は容易に比愉的用法に転化し、非血縁者や異民族出身者をも、本来は血縁集団であるべきラフに吸収し得ている。民族帰属認知にあたっては、慣習原則と血縁原則とが事実上併用されているということになるが、これは一面で広大な暖味領域を発生させる。この暖昧領域において多用されるのが、「真のラフ」あるいは「ラフではない」等といった、自分本位の本質論である。ラフにおける民族帰属認知の柔軟性や可変性を支えているのは、まさにこうした慣習原則と血縁原則の併用に伴う本質論の増殖である。
- 2007-03-31