メディアの中の〈私小説作家〉 : 葛西善蔵の場合
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概要
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葛西善蔵は自らの破滅的な人生をそのままに描く私小説作家として日本近代文学史上に確固たる位置を占めている。それは、第二次大戦後に輩出した、伊藤整の『小説の方法』を代表とする、日本近代文学の主流を自然主義から私小説の流れと見る見取り図が定着したために外ならない。この見取り図の中で、葛西は調和的な心境小説の代表的作家志賀直哉の対極に位置し、狭隘で特殊な日本の文壇に生息した典型的な私小説作家とされている。しかし、葛西は、文壇が出版ビジネスの好調さに連動して、経済的に黄金時代を迎え拡大していった大正後期に活動した作家である。しかも、大正七年に葛西が文壇に本格的にデビューしたときに「早稲田志賀」と呼ばれたことからわかるように、人道主義作家として別格のあつかいだった志賀に匹敵する作家と評価されていたのである。伊藤らの葛西に対する評価はこうした文学史的事実を無視して成立したものだった。 葛西が私小説作家ではなく、人道主義作家と認められたのは偶然ではなかった。葛西は、当時全盛期を迎えていた人道主義を意識して、主人公を純粋ではあるが、生活能力のない人物に設定することで、物質的で金銭至上主義の現代社会を批判する戦略をとっていたからだ。その戦略が効を奏して同時代の読者の高い評価を獲得することとなった。しかし、この戦略が通用した期間は短かった。米騒動や労働争議によって社会情勢が変化し、文壇に多数の新人が参入することで、大正九年には人道主義のヘゲモニーが失われてしまったからである。また、高い評価を受けたことによって、葛西はメディアに注目される、いわば〈流行作家〉となってしまった。そのため、葛西は評価される以前のように時間をかけて執筆することができなくなって、大正八年後半からは社会との関連性が希薄な、自分の身辺に題材を取った私小説を中心に活動するようになった。つまり、私小説作家葛西善蔵は、出版ビジネスの好調さによって成立した文壇の黄金時代の産物なのである。 本稿では、葛西を対象として分析したが、メディアと文学的言説のネットワークを歴史的に検証することで、新たな相貌を示す私小説作家は他にも存在しているはずである。その作業は日本近代文学史の新たな見取り図を獲得することにつながると思われる。
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