民家における書院的座敷の成立時期の一例 : 長野県南佐久郡八千穂村の場合
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概要
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民家に座敷(特別の客のために用意された部屋)が設けられる過程を考察することは民家研究の一つの課題である。座敷は近世を通じてしだいに整ってくる。そして,2室の座敷が並び,その間の間仕切の建具をはずせば,1室のように通して使える座敷形式が成立する。これは民家の座敷の一形式として全国的にひろがり定着するようになる。この座敷には天井が張られ,長押が廻り,上の座敷にはトコ・タナ・ショイン等が設けられる。この座敷は書院造の影響によって出来たものであり,2室続きの座敷は民家の最も,整った座敷形式と考えられる。この座敷形式はどこで,いつごろ,どのようにして成立したのだろうか。この問題はまだ,はっきりわかっていないように思われる。この点からして,1961年長野県南佐久郡八千穂村で行った民家調査のさいにえた,佐々木嘉幸家の住宅遺構はこの地方を代表するものと考えられ,普請帳等の文献資料もあって重要である。文献資料を検討し,遺構の再調査を行った結果,上にあげた問題の1つである2室続きの座敷の成立時期をはっきりさせることが出来た。八千穂村民家調査報告(吉田靖「長野県八千穂村の民家について」建築学会論文報告集・第71号,「八千穂村の民家」長野県教育委員会1963年3月)では,佐々木家の寛保3年の普請は新築普請と考えていた。そして延享の座敷は寛保3年に,すでに計画されていたと考えていたので,2室続きの座敷成立の時期を明らかにすることができなかった。これは,寛保3年の家普請を移築普請でなく,新築普請と考えていたためである。図1佐々木家の外観[figure]佐々木家は名主格の家柄であり,住宅遺構もしっかりしており,普請帳などの文献資料によって,2室続きの座敷のできに時期がはっきりする。佐々木家は住宅が建てられた頃,享保11年,寛保2年には上畑村の名主をしているが,享保16年には名主をしていない。ここでは名主は世襲制でなく,廻り持ちだった。住宅は享保16〜17年に建てかえられたが,このときは,2室続きの座敷を持っていなかった。この住宅は建ててから10年後の寛保2年に千曲川の洪水にあった。この洪水にあって上畑村では多数の死者をだし,多くの家屋,家財,馬などを失った。このため,上佃村は千曲川の河原から,山際の現在の位置に移ったのである。佐々木家も,このとき移転した。そして,翌寛保3年には現在の敷地に家屋(洪水にあったが流されなかった)を移築した。こののち,延享4年には座敷の増築を行い,佐々木家は2室続きの座敷を持つようになった。そののち,佐々木家のような座敷形式は,この地方の名主格の家,幕末には経済力のある家の形式として定着するのである。佐々木家の享保の家の建築,延享の座敷増築の過程よりして,この地方で,名主格の家に2室続きの座敷が成立する時期は享保にさかのぼらず,延享よりは前であると考えられるのである。上に述べたことを,文献,遺構を検討することによって示したい。第1表 佐々木家普請の年表[table]
- 社団法人日本建築学会の論文
- 1964-02-28