ゴッホの最晩年 : 弟テオへの手紙の分析を通した一考察
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概要
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ゴッホが弟テオに当てた書簡を再読し、南仏滞在末期からオヴェール・シュル・ワーズ(以下、オヴェールと略記)で生を終えるまでの最晩年を再考する。ゴッホは1888年夏、パリから南フランスのアルルに移り、明るい日差しの下、風景画や肖像画を描く。村人たちはわずかな共感者を除き、画家に胸襟を開くことはなかったようだが、浮世絵が喚起する日本の代替地と画家がみなしたアルルで描かれる絵はそれまでの絵とは異なり、「跳ね橋」にせよ「花畑」、「種まく人」にせよ、黄を中心とする明るい色彩に満ちたものとなった。しかし、芸術家村の構想が頓挫し、ゴーギャンにも去られてからはゴッホに注がれる村人の目は一層厳しく、発作にも見舞われるようにもなり、ついにアルルから追われ、近郊のサン・レミの施療院に移る。条件つきで絵を描くことを許されるが、次第に医療環境に耐えられなくなり、憧憬の地南仏を去る決心をする。テオの世話で、印象派の画家の理解者ガシェ医師の住むオヴェールに落ち着くことになった。一部にはこの地に到着したゴッホにはすでに創作のエネルギーは残っていなかったとする見方もあるが、ワーズ川沿いに豊かな麦畑が広がるオヴェールは(現在でも麦畑などは当時とほとんど変わっていない)、印象派の好んだ地ということもあってか、ゴッホの気に入った。わずか65日の滞在で70点におよぶ作品を残したことがその証左であろう。オヴェール時代の作品でよく言及されるのは「オヴェールの教会」や「ガシェ氏の肖像」などとともに「烏の群れ飛ぶ麦畑」だ。これはゴッホの遺言とも目され、苦悩と絶望そして死がイメージされているとされる。A・アルトーがゴッホを「無理解な世の中の殉教者」と呼んで以来、その解釈が一般的となったこともこの絵の評価に影響していると言える。確かにゴッホは自分の病気をはじめ、生きることそのものへの深い苦悩に直面していたが、とはいえ、一方では描く喜びを決して捨ててはいなかった。「ドービニーの庭」はそのことを強く示す作品であり、テオ宛の最後の手紙でも淡々とした調子ではあるが、この作品にどれほどのエネルギーを注いだかを記している。ゴッホは自殺未遂から2日間も生きて、7月29日に逝去する。この2日間の空白の意味を捉えなおす時、「ドービニーの庭」の存在と、それをテオに語るゴッホの言葉はもっと重視されてもよいのではないか。ガシェ医師との関係等についてもっと詳しい研究が必要ではないか。本論はそれを問いかける一文である。
- 2006-03-31
著者
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寺迫 正廣
Professeur a la Section du Dynamisme culturel du Departement des Sciences humaines, Faculte des Scie
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寺迫 正廣
Professeur A La Section Du Dynamisme Culturel Du Departement Des Sciences Humaines Faculte Des Scien