19世紀前半におけるオスマン帝国の関税表台帳
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概要
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関税表とは、輸出入商品に対する関税を商品別に記した一覧表であり、国際貿易交渉の大きな焦点の一つとなってきた。本稿は、1800年代から1830年代までを対象としたオスマン帝国の関税表台帳を紹介し、当時の帝国とヨーロッパ諸国間における関税表の役割、オスマン市場をめぐる両者の関係を分析するものである。オスマン帝国のヨーロッパ人商人に対する関税は、カピテュラシオン(スルタンがヨーロッパ諸国の元首らに下賜した居留・通商特許)によって定められていた。ヨーロッパ諸国は、17世紀より関税率の引き下げに成功し、18世紀には従価3%がヨーロッパ人商人に対する基本的な関税率となっていた。この関税率は、帝国臣民のムスリム商人の4%、非ムスリム商人の5%に対しても有利なものであった。オスマン帝国の関税は従価税を基本としていたが、実際の徴収にあたっては、徴収額に関する税関官吏と商人の諍いを防ぐために、それぞれの商品の時価より関税を算出して作成した関税表(gumruk ta'rifesi)を利用していた。当初は国内向けに利用されていた関税表が、正確にいつからヨーロッパ諸国との間でも適用されたかは不明であるが、遅くとも18世紀末には、オスマン帝国と主なヨーロッパ諸国の間で関税表が作成されていたことが知られている。関税表は、ヨーロッパ人商人にとって、税関官吏の不正徴収への対抗手段を提供するのみならず、定められた関税率よりも実際にはさらに低い関税を支払う道を開いた。オスマン帝国における物価の高騰や貨幣の悪鋳による為替条件の変化がヨーロッパ人商人には有利に働き、関税表の有効期間(19世紀初頭においては14年間が基本)が終了する頃には、関税表に定められた関税は、率にして1〜2%、商品によっては1%に満たないことすらあった。更にこの頃、ヨーロッパ人商人はオスマン帝国の内国商業への参入をも試みはじめ、その際カピテュラシオンを盾に、内国関税にも3%の対外関税率が適用されるべきだと主張した。これに対してオスマン政府は、参入には帝国臣民の非ムスリム商人と同様5%の内国関税および内国通商に課されたその他の諸税の支払いを条件とするとして対抗した。本稿で紹介する台帳には、オーストリア、ロシア、イギリス、フランスをはじめとする各国の関税表の写しが記録されるとともに、関税行政に関する様々な文書の写しも控えられている。主な貿易相手国、貿易商品とその関税、更新毎の関税の変化といったデータのみでなく、内国商業をめぐる攻防、さらに関税収入の帝国近代化改革への利用に関する情報も読みとることができる。当時、帝国財政は逼迫し、通商への統制が強化されつつあった。ヨーロッパ諸国は、例えば国内商業にもカピテュラシオンの規定を持ちこむことにより、次第に「貿易障壁」の撤廃に成功していった。この台帳は、ヨーロッパによるこうしたカピテュラシオンの再解釈過程、およびそれに対するオスマン側の対応のあり方を明らかにするものである。
- 2003-02-28