亡命ポーランド人とオスマン帝国 : 19世紀中葉
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概要
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東欧近代史におけるオスマン帝国の位置は,いわゆる東方問題との関係において大国の視点でのみこれまで語られ,とりわけロシアのニコライー世の"瀕死の病人"という表現のなかに象徴的に示されているといえよう。けれども,オスマン帝国が衰退に向かう頃,十八世紀末に分割されて滅び去った士族共和制ポーランドの影を追うポーランド人の営為のなかに,オスマン帝国に協力を求め,三分割勢力,すなわちロシア・オーストリア・プロイセンに立ち向かおうとした行勤は,歴史の表面には現れない小国の試行として見逃すわけにはゆかない。オスマン帝国と士族共和制ポーランドとの交流は十四世紀にオスマン帝国がバルカン半島に進出したときに遡り,トルコ人たちはポーランドをレヒスタン,すなわちレフ(シュラハタ)の国と呼んでポーランド士族(シュラハタ)の勇気を讃えたのであった。そしてポーランド分割に臨んではヨーロッパ大陸において分割反対を唱えたのはオスマン帝国が唯一であったし,また分割反対を叫ぶバール連盟の兵士たちやコシチューシコの反乱の参加者たちを領内に温かく迎え入れたのもオスマン帝国であった。それは,ロシアの南下を防ぐ防壁としてポーランドが有益であったからにほかならない。それゆえ,ポーランド分割後,ポーランド人亡命者たちが対ロシア政策を進めるに際し,容易にオスマン帝国と協力関係を結んだのはいうまでもない。同時にオスマン帝国の方でも,ロシアとの対抗上,近代化・西欧化を推進せざるを得なくなったとき,ポーランド人たちの協力を必要としたのであった。この路線を定めたのが,パリに亡命の拠点を築いたアダム=チャルトリィスキ侯を指導者と仰ぐ右派政治グループであった。彼らが1840年代に展開した「二つの汎スラヴ主義」論,すなわち「ロシアの汎スラヴ主義」とそれと対決する「スラヴの汎スラヴ主義」の図式こそが彼らの描く戦略的布陣であった。後者に依拠するチャルトリィスキ派は,ポーランドの指導の下にスラヴ・バルカン諸民族を連邦制に組入れることによってロシアの南下に対処しようとした。「諸国民の春」が敗北したあと,守りの一策として採られたイスラム化政策も,いうなればスルタンの宗主権下においてこの路線の一貫性を図ろうとした結果にほかならない。このイスラム化政策はまた,東欧史において伝統的な意味をもつ連邦制の問題に通じ,スルタンの支配権を容認した上でトルコ・スラヴ主義という形で再生し,展開されるものでもあった。
- 日本中東学会の論文
- 1987-03-31