日本とサウジアラビアの国際協力における政治経済 : アラビア石油の事例から
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概要
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1957年12月10日アラビア石油(AOC)の創設者山下太郎は石油採掘権協定をサウジアラビア政府と締結した。また、1958年7月5日にはAOCはクウェート政府との間でも石油採掘権協定を締結した。これらの2つの協定によって、史上で初めて、日本の石油会社が中東で石油採掘権を確保するに至った。以後40年以上に渡って、AOCは国内の石油市場への原油の安定した生産と供給を維持し、日本における最大手の石油生産会社となった。一方サウジアラビアにとっては、AOCは、例えばアル-カフジ市(al-Khafji)における人材開発や地域社会の発展といった公益(masalih)に関する領域で活躍し、また安定した油田操業によってサウジアラビア政府の石油収益の向上に貢献した。第二次世界大戦直後には、アラブ諸国と日本は、両者が共に「経済発展を目指す非西洋の開発途上国」であったという点で共通の関心を有していた。そして日本とサウジアラビア双方の指導者たちは、AOCに関する限り、彼らの協力はそれぞれの国益を高めるための「ウィン-ウィン」ゲームになるとみなした。つまり彼らは、主要石油企業(MOCs)への依存を減らすことによって、双方の国家安全保障が強化され経済的利益が増加すると考えたのである。しかし、その後日本とサウジアラビアの政府はAOCに関する合意に達することができず、その結果2000年2月27日にAOCはサウジアラビアにおける石油採掘権を失った。これによって、海外における石油開発では最も成功した日本企業とみなされていたAOCはサウジアラビアにおける40年間の生命に終止符を打った。AOCが日本への安定した原油供給を保証する「希望の星」とみなされていたことから、日本の石油の専門家の中にはこの結末を「悲劇」として記述した者もいた。理論的なレベルからすれば、サウジアラビアにおけるAOC石油採掘権の喪失は国際政治経済論理と矛盾するものである。日本への原油供給を保証するためには、日本の政策立案者はサウジアラビアとの友好関係をさらに深める必要があったはずである。同様に、サウジアラビアの政策立案者も、日本の原油市場への石油の輸出の流れを維持するために日本に対してより協調的な態度をとることになったはずである。実践レベルでは、AOCの事例はサウジアラビアにおける日本のイメージに関して別の問題を提供する。日本政府とサウジアラビア政府との交渉の失敗によって、多くのサウジアラビア人は日本を友人であると同時に不可解なよそ者でもある国と見るようになった。すなわち、日本の「経済の奇跡」は1973年以来のサウジアラビアの貢献(すなわち安定した石油供給)によって成し遂げられたにもかかわらず、日本は「本当に必要な時」に助けてくれなかったというものである。理論と実践の双方のレベルからこれらの問題を解決するために、本稿は以下の点を明らかにすることを目的とする。まず日本とサウジアラビアの間に協調的態度をもたらす要因は何か?次に日本は未だに石油の輸入に大いに依存し、またサウジアラビアも経済発展の促進のためにその石油収益に頼っている現状にもかかわらず、日本とサウジアラビアがAOCに関する合意に違っすることができなかったのはなぜか?そして、将来的にはどのようにして両国の協力関係を高めることができるだろうか?AOCの事例を分析することによって、日本とサウジアラビアの間の国際協力の可能性を決定するのは双方の間の関係を組織する社会構造の本質であるということが明らかになる。そして国際石油構造、石油政策における国家の役割、日本とサウジアラビア相互関係の性質という三つの点が主な要因としてこの社会構造に影響していると言えるだろう。本研究は、もし日本とアラブ・イスラーム世界の間に協力関係を築くための安定した基盤を作ることができなければ、将来の異なった領域でのお互いの協力の実現可能性は思ったよりも低いものになるかもしれないと警告するものでもある。この研究は国際協力を高めるためのいくつかの提言を含み、また日本とサウジアラビア(およびアラブ世界)との間の国際協力高めるための条件とメカニズムを示すものでもある。
- 2006-08-08