アディカラナについて
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概要
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ヴィナヤにはアディカラナと言われるものが規定されていて,しばしば「諍い」を意味すると理解されている.本論文ではパーリ文献に資料を限定し,アディカラナが「諍い」であるのかどうかを検討した.アディカラナには,vivadadhikarana-, anuvadadhikarana-, apattadhikarana-, kiccadhikarana-という4種類のものがあるが,その内のapattadhikarana-に焦点を絞って考察した.先ず,apattadhikarana-の定義では,5つや7つの罪のグループそのものがapattadhikarana-なのであって,罪のグループに関する「諍い」がapattadhikarana-なのではない.次に,apattadhikarana-に対する一つの鎮静方法では,犯した罪に関して「諍い」が起きていることを必須条件とするという記述は全く述べられていない.さらに,註釈はニッサギヤ・パーチッティヤ第一条に違反した場合にapattadhikarana-に対するその鎮静方法を行うように説明しているので,アディカラナがもし「諍い」であるとするならば,ニッサギヤ・パーチッティヤ第一条に違反した者は必ず諍いを起こしていることになってしまう.しかし,そのような記述は全く述べられていない.以上のように,apattadhikarana-の定義と鎮静方法を考察する限り,アディカラナが「諍い」を意味しているとは考えられない.次いで,アディカラナの語義を検討した.先ず,アディカラナはvatthu-で説明されているので,「論点・問題」の意であると考えられる.次に,註釈では「諸々の鎮静によって目掛けられる(管理される)べきことである」と述べられているので,「目掛けられること,管理されること」の意であると考えられる.さらに,文脈上アディカラナは,明らかに僧団組織全体に関わることである.従って,アディカラナはパーリにおいて「(僧団組織全体に関わる)論点・問題,目掛けられること・管理されること」の意である.
- 日本印度学仏教学会の論文
- 2006-03-25